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2019年12月18日

「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」エクステンデッド版とジミーの話

※原作映画を予習済みの方向けの内容です。
未見で読まれると何の話だかさっぱり分からない上に、重大なネタバレだけ知ることになるのでご注意ください。また、ここに書いたことは全て個人的な解釈です。
そしていつものことですが、この記事も長いです。


「おめーまだこの映画の話すんのけ!?」と自分でも自分にツッコミを入れましたが、エクステンデッド版&劇団公式の人物相関図を見たらまた語りたくなってしまったもんで…へへっ!
というわけで「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」エクステンデッド版(以下ワンス・エクステンデッド版)の追加シーンと、翔君が演じるジミーについて語ろうと思います。ご興味あればお付き合いくださいませ。

●ワンス・エクステンデッド版の話

さてさて、まずはワンス・エクステンデッド版について。こちらは映画を作成したレオーネ監督の死後、ご遺族の助言などを元にテストフィルムとして撮影された部分を本編に付けたし、「監督の意図に最も近い版」として公開されたバージョンです(とはいえ完全版はレオーネ監督自身の編集によるものなのに対し、エクステンデッド版は監督の死後20年以上経ってから作られたようなので実際の所は分かりませんが)
そんな完全版から追加になっていたシーンは下記の通り。

◆ヌードルスが墓地責任者の女性と霊廟について話すシーン、及び墓地でヌードルスの様子を窺う不審な車のカットが追加。
◆ダイヤ強奪後に車ごと海に飛び込んだマックスたちが海面に浮かび上がるが、ヌードルスだけ浮かんでこないというシーンが追加
◆ヌードルスがベイリー邸の様子を窺っているシーンが追加。この時、墓地で見かけた不審な車が屋敷から出てくるも、そのまま爆発する。ついでに清掃車もちょっと映る。
◆劇場前でデボラを待っているヌードルスと送迎車の運転手が、ユダヤ人として生きることについて話す場面が追加。
◆デボラ暴行後、酒場で泥酔していたヌードルスとイヴの出会い&ベッドシーンと、デボラが汽車に乗る前に一人でレストランにいる場面が追加
◆デボラの主演舞台「アントニーとクレオパトラ」のワンシーンが追加(ヌードルスも客席にいる)
◆ヌードルスと再会する直前に、ベイリー邸でマックスとジミーが密談していたシーン追加

追加シーンで一番印象が変わったのは労働組合委員長のジミーと、ヌードルスの愛人・イヴでした。イヴはデボラショックでヌードルスが作った恋人なのかと思ってたけど、完全に愛人というかヤクザの情婦(イロ)って感じでしたね!
二人の出会いはデボラ暴行事件の直後でして、酒場でやけ酒を煽っていたヌードルスにイヴが声をかけたのが始まり。で、ヌードルスはベロベロに酔った状態で大金をイヴに渡すと「抱かせろ。ただ、名前はデボラと呼ぶ」と迫り、イヴは(良いカモ見つけた!)とばかりに「お安い御用よ」と引き受けた。そのままベッドシーンに突入するも(BGMは何と「アマポーラ」)ヌードルスは酔いつぶれて寝落ち…という、何かもう色んな意味で「あーあ…」とため息ついちゃうシーンでした(笑)。

あとヌードルス、マックス、デボラも追加シーンを見てちょっと印象が変わったかな…でもまぁ、映画としての完成度は「完全版」の方が高いと思います。追加映像部分はテストフィルムを使っていることもあり、画質が急に悪くなるんですよね。何も知らないでエクステンデッド版から見ると違和感が凄いんじゃないかな。
そして全体的に説明的なシーンが完全版ではカットされていたんだな、という印象です。エクステンデッド版の追加シーンを見ると話の繋がりが分かりやすくはなるけど、情報とはありすぎても物語をつまらなくするもの。ヌードルスとイヴの関係なんかは完全版の方が色々想像できる面白さがあったし、そういう「観客の想像に任せる」部分が多い完全版の方がこの作品の雰囲気には合っていたように思います。


●人物相関図とジミーの話

見た瞬間、「なっっっっっが!!」とつい笑ってしまった劇団公式の滅茶苦茶長~~い人物相関図www
あれを見て、イケコ先生は当時の社会情勢を分かりやすくする人物関係を作ってくれたんだな~!!と嬉しくなりました。
映画初見時、ジミーの労働組合とギャングの関係ってのがよく分からなかったんですよね。なのでベイリー長官の汚職事件のあたりも何とな~くしか把握できず…「とりあえず、悪いことやってたのがバレたんだな!!」くらいの理解度でした(笑)
でも当時の時代背景やジミーのモデルとなった人物についてちょっと調べてみると、おそらく映画公開当時は特に説明しなくても「あぁ、ジミー・ホッファの事件が元ネタか」と分かる観客が多かったんだろうと思います。名前もそのまんま「ジミー」にしてるくらいだし。
ということで、ざっくりですがワンスのジミーのモデルとなったジミー・ホッファという人物についても紹介しますね!


大恐慌時代、ドイツ系移民のジミー・ホッファ(以下ホッファ)は食品チェーン店で配送の仕事をしていました。しかし過酷な労働条件に不満を募らせ、ある時ついに同僚たちと仕事をボイコット。ストライキを起こして労働条件の改善を迫りました。
当時、アメリカでは多くの移民が過酷な労働条件で働かされていましたが、ストライキは法律で禁止されていました。その上雇用者たちは、反抗的な労働者を暴力で従わせることも多かったようです。超不景気だったこともあり、雇用側が圧倒的に強い立場にいたわけですね。そんな中、法律にも暴力にも怯まず立ち上がり、仲間たちを扇動するカリスマ性も持ち合わせていたホッファは、やがて全米トラック運転手組合(労働組合)の委員長になります。

しかし、ホッファは「やられたらやり返す」タイプの人間でもありました。雇用者側の暴力に対抗するために、自分もギャングを味方に引き入れたのです。アメリカの労働運動の裏側では、雇用者側と労働者側のそれぞれが雇ったギャングやマフィアの抗争が起こっていたのでした。
そしてホッファは、雇用者には「こちらの条件を飲まないとストライキを起こすぞ」と迫り、ストに非協力的な労働者(スト破り・非組合員と呼ばれる人たち)には「ストに協力しないと痛い目を見るぞ」と脅し…えげつない手を使いながらも支持者を集め、組合をどんどん大きくしていきました。その影響力は政治の世界にまで広がり、1960年代には共和党・民主党に次ぐ第三の政治勢力にまで成長します。
しかし裏社会との繋がりや、組合年金の不正運用を問題視されて1967年にはついに投獄されることに。それでもなんやかんやで上手く立ち回って4年で出所し、再起を計っていたホッファですが…1975年7月30日、彼は突然失踪します。

この失踪は全米中で大きな話題となり、「車ごと圧縮機にかけられた」とか「バラバラにされて野球場に埋められた」とか様々な都市伝説が生まれました。いずれにせよ、もう旨味がなくなった彼を邪魔に思った裏社会の誰かに殺されたのだろう、というのが一般的な見解のようです。


というのが実在したジミー・ホッファの来歴なのですが…最後の辺り、誰かを思い出しませんか?
そう、映画の中でマックスが辿った末路と似ているんです。
大物のマフィアやギャングたちと裏で繋がって上手くやっていたはずが、いつの間にか用済みの人間と見なされて始末されてしまう…そして一際ゾワッとしたのが、「ジミーは殺されてバラバラにされた」という都市伝説の部分。
ワンスのクライマックスで清掃車を登場させたのは、この都市伝説を彷彿とさせる意図もあったんじゃないかと思います。

ワンス・エクステンデッド版では、ヌードルスとマックスがベイリー邸で再会する直前に、マックスとジミーが密談する場面が追加されていました。TVニュースのインタビューでは「自分は清廉潔白だ」なんてしれっと話していたジミーの、本当の姿が分かる場面になっています。
マックスとジミーは35年間癒着しながら、お互いに利益を得ていました。しかし汚職の嫌疑から逃れられなくなったマックスをジミーが見限り、マックスの権限を他者に譲って自殺するように迫るのです。この時のやり取りで、ニュースで報道されていた自動車爆発事件もジミーの差し金らしいことが分かります。追い詰められたマックスは、自分だけ逃げようとしているジミーに怒りをぶつけながらも、最後には権限の譲渡を受け入れます。そしてジミーは今夜中に命を絶つようマックスに言い残してパーティー会場へ姿を消し、入れ替わるようにヌードルスがベイリー邸へやって来る…という流れです。

ワンス・完全版ではこのマックスとジミーのやり取りがカットされていたこともあり、労働組合とギャングの関係なぞ知らない私のような人間には正~直話が分かりませんでした!
でもある程度アメリカの近代史や社会事情を知っている人が見れば、この場面がなくてもマックスとジミーが癒着していたことは想像が付くことでしょう。
加えて、その後に登場する大型トラックの清掃車とゴミをバラバラに粉砕するローラー。あれを見ればホッファの事件を思い出す観客も多いだろうし、説明っぽくなる密談シーンをカットして想像の余地を残した方が面白いとレオーネ監督は考えたのかもしれません。

ちなみにあの清掃車の場面、歩いて来るのがマックス役のジェームズ・ウッズではなく別の役者だって初見で気付かれた方っているのかなぁ…?私は言われるまで全然気付きませんでした(笑)
これはBDの特典映像でジェームズ・ウッズがコメントしていたのですが、あの場面で監督はあえて替え玉の役者を使ったんだそうです。本当にマックスが清掃車に飛び込んだのかどうか「見た人の想像に任せたい」と考え、意図的に観客を戸惑わせようとしたんだとか。マジか、監督の狙いがすごすぎて恐いよ!!
「一つ確かなのは、マックスが翌日の夕食には現れないこと。それが伝わるのが大事で、どうやって死んだかは関係ない」というのが監督の言だそうですが、ホッファの最期を皮肉る意味も込められていたんじゃないかなぁ…ワンスにおいて、ホッファをモデルに作られたキャラクターはジミーですが、マックスにもホッファのイメージが投影されていたように思います。
それと同時に「大きなトラックの陰にマックスが姿を消す」という映像が、ヌードルスとマックスの出会いの場面(馬車の陰でスリを企んでいた場面)を思い起こさせる効果も生んでおり、とても重層的な意味を持つ場面にもなっています。
清掃車の外装に「35」と大きく書かれていたのも印象的でしたねぇ…ヌードルスとマックスが35年ぶりに再会したことにかけているんでしょう。
彼らがすれ違い続けた35年という長い時間。ヌードルスが大切にしてきた美しい思い出。そしてマックスが築き上げてきた全て。それら全てがゴミ清掃車に粉砕されてしまったかのような虚しさと哀愁。
台詞が一切ないのに、ここまでインパクトのある場面を作ったレオーネ監督って凄いなぁと改めて思います。

ただまぁ、1930~70年代のアメリカの労働問題を詳しく知っている人なんて現代日本では少ないでしょうし、舞台版ではそこら辺を分かりやすくするためにもジミーの役を膨らませたんだろうと思います。
青年期の人物相関図を見るとジミーがストライキを起こす運送会社の社長や、その会社と癒着しているマフィアの存在がしっかり書かれていますもんね!映画ではあまり描かれていない、労働組合のカリスマリーダーとしてのジミーが見られるんじゃないかとワクワクしますわ~!!
そしてエクステンデッド版のマックスとの密談シーンもあるとしたら更に楽しみ!
マックスを追い詰めるジミーの「こいつが一番悪者なのでは?」感がとても良かったので、舞台上でさきちゃんを追い詰める翔君が見られるかもしれないと思うと…は~~めっちゃ楽しみじゃんね!?
「ひかりふる路」で、さきちゃんのダントンを追い詰める翔くんのロラン夫人がさ、も~滅茶苦茶好きなんですよね…そんな雰囲気がまた見られたら嬉しいなぁ。
ついでにマックスとジミーはどちらもジミー・ホッファをモデルにしている部分があると思うので、その二人を彩彩が演じるというのも面白いのではないかと!思います!!まーどっちも酷い人間ですけどね!!(笑)

しかしエクステンデッド版…Amazonの商品説明には「マックスとジミーの密談シーンが追加されている」とだけ書いてあったので、「密談ってどのタイミングでしてるの!?35年前!?それとも現在!?」と悶々としましたが(それによってマックスとヌードルスの解釈が変わるかもしれないと思ったので。結果的に、エクステンデッド版を見てもそこは変わりませんでした)
このタイミングでムービープラスがエクステンデッド版を放送してくれたのが本当にありがたかったです!ツイッターで放送を知ることができたのもメチャメチャありがたかった…は~インターネットありがてぇ!!

とりあえず、観劇前に出来る限りの予習はしたように思うので後はイケコ演出版を楽しみに楽しみに待ちたい所存です!!
人物相関図でマックスからデボラへの→を見て「おっ、そう来るのね」と思ったし、清掃車は出てこないそうなのでどういう結末になるのかも楽しみだよ~!!


…あと本当~にどうでもいい余談ですが、ギャングとマフィアの違いって皆さんご存じでした?私は知りませんでした。
どっちも犯罪と暴力で金を稼いでるのは同じなんですが、マフィアはイタリアのシチリア島で活動する、あるいはシチリア島にルーツをもつ組織というのが元々の定義なのだそう。
だからヌードルスたちはマフィアではなく「ユダヤ系ギャング」と紹介されるわけですね、なるほど。

2019年12月7日

「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」について考える③

※今回は考察というより、ただの長い萌え語り文です。


【のぞさきがヌードルスとマックスを演じるということについて】

長々と書いてきた「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」の考察ですが、書き始めたきっかけは最初の①に書いた通り「さきちゃんが演じる予定のマックスが色んな意味でヤバい奴だったから」でした。

でも実はもう一つ大きな理由がありまして、それは「さきちゃんが望海さんともう一度『ドン・ジュアン』を演じたいと思っている」と知ったことでした。
というのも、「ワンス」のマックスって「ドン・ジュアン」のドン・カルロと似ている部分があるのでは?と思ったんですよ。
もちろん、人物としては全然似ていません。ただ、ドン・カルロがドン・ジュアンに対して抱いていた感情と、マックスがヌードルスに対して抱いていた感情には共通点があるように思ったのです。

というわけで、「ドン・ジュアン」から始まった【のぞさき】を振り返りつつ、お二人がヌードルスとマックスを演じることについて語りたいと思います。
あ、ちなみに今回は超!個人的な!萌え語りです!!
読んでも作品解釈に役立つような内容はあまりないと思いますんで、そこんとこよろしくお願いします!!


さて、私がワンスのBDを観賞する少し前、雑誌「婦人画報」にさきちゃんのインタビューが掲載されました。
過去の出演作から特に印象深い場面を語るという内容で、さきちゃんが挙げていたのが「ドン・ジュアン」の「悪の花」というナンバー。ご覧になった方ならすぐに「分かる」と深く深く頷く場面かと思いますが…酒と快楽に溺れる日々を過ごす超プレイボーイのドン・ジュアン(だいもん)と、そんな彼を善の道へ導こうと奮闘する友人ドン・カルロ(さきちゃん)がお互いの主張を激しくぶつけ合う、まさに「殴り合いのような」デュエット曲です。
そしてそのインタビューの中でとても印象的な言葉がありました。


ドン・ジュアンに対する気持ちはなんだったのだろうといまだに思うんです。友情なのか、それを超えた愛情なのか、正しい道を歩ませたいという使命感なのか……。これだ!という感情は最後まで見つかりませんでした(「婦人画報」2019年11月号 p.325より)


…「ドン・ジュアン」大好きマンのわたくし、この部分を読んだ瞬間「ッアーーー!!!」と叫んで思わず天を仰ぎましたわ。そう、それだ!!って思ったんですよね。激しく同意ってやつです。
さきちゃんが演じたドン・カルロ君は滅茶苦茶良い奴で、女性にも紳士的で礼儀正しい好青年で、人としてかなりKUZUなドン・ジュアンと何で友人なのかが分からないくらいで…むしろ唯一の欠点が「ドン・ジュアンの友人」ってところなのでは?と思うような人物でした。
でもカルロ君はひたすらにドン・ジュアンのことを想い、どんなに冷たくあしらわれても諦めず、彼を良い方向へ導こうと説得し続け、最後には一人で死を選んだジュアンのことを「死ぬことはなかったのに」と悼むのです。
一応カルロ君にはエルヴィラという好きな女性がいる設定ですが、どう見てもジュアンへの想いの方がデカすぎて「あんた、あの子(ジュアン)の何なのさ!?」と作品を見る度に問い詰めたくなりました。ていうか未だに心の中で問い詰めてます。

ただその「デカすぎるジュアンへの想い」が一体何なのか、私も長いこと答えは出ませんでした。
だからこそ、さきちゃんの「これだ!という感情は最後まで見つかりませんでした」というコメントに天を仰いだわけです。
ドン・カルロがドン・ジュアンへ向けていたのは、「友情」や「愛情」のように単純にカテゴライズできないけれど、とてもとても大きくて深い感情。答えはそれで良かったのだ、と思って。

そして、同じように「カテゴライズできないけれど、大きくて深い感情」を友人に対して抱えていると思ったのがワンスのマックスでした。
ドン・カルロは「大切な友人(ドン・ジュアン)には自分と共に善の道を歩いてほしい」と願って行動していた人だと思います。
それに対して、マックスは「大切な友人(ヌードルス)には自分と共に悪の道を歩いてほしい」と願って行動していた人だと思うんです。
善と悪という方向性こそ真逆だけど、「大切な友人と、同じ道を歩いていきたい」という二人の願いは同じだったと思うんですよ。そのためにドン・カルロもマックスも、最後まで諦めずに一緒に歩きたい道を友に示し続けた。
そういうところが、二人を似ていると思った所以です。

宝塚では、どんなに評判の良かった作品でも同じキャストで再演が行われることはまずありません。
どれだけ願っても、のぞさきで「ドン・ジュアン」が再演されることはないでしょう。…滅茶苦茶残念ですけど。
ただ、全く同じではなかったとしても、さきちゃんの中で「最後まで見つからなかった感情」が再びだいもんへぶつけられる瞬間をもう一度見られるかもしれない(そして考えたくないけど、これが最後のチャンスになるかもしれない)
そう感じたからこそ、絶対にお二人のヌードルスとマックスを見たいと思ったし、こうして萌え語りをするためにも原作をきちんと理解せねば…と思ったわけです。
いや~長い道のりでした…!(笑)

のぞさきの好きな所は色々ありますが、中でも濃厚な人間ドラマを見せてくれる所が私は本当に好きなんですよね。

「ひかりふる路」のマクシムとダントンは深い絆で結ばれた親友でありながら、政治的な考え方の相違からやがて関係に亀裂が生じ、マクシムはダントンを死に追いやる。
「ファントム」のエリックとキャリエールは実の親子だが長年名乗り合うこともできずにすれ違い、理解し合えたのも束の間、最後にはキャリエールがエリックを銃殺…。
「壬生義士伝」の貫一とジロエは幼馴染の大親友であったが、身分の違いから進む道が分かたれてしまい、ジロエは貫一に切腹を命じなくてはならなくなる。

…なんかさ、濃いっていうか重いっていうか、人間関係をこじらせすぎじゃない…?
共通してるのは、どれも「お互いを大切に思う気持ちに嘘はないのに、時代背景や環境のせいで気付けば関係がこじれてしまっていて、ついには悲劇的結末を迎えてしまう」ということ。
そう、どれも本当にね…とても深い友情や家族愛で結ばれていた人たちなんですよね。
ダントンはマクシムが狂気の道に堕ちないよう命懸けで彼を止めようとした結果の死だし、キャリエールはエリックを愛していたからこそ「殺してくれ」という彼の望みに応えて銃を撃った。
そしてジロエは国を守るために貫一を殺してしまったことから、自らも悲劇的な運命を辿るという…。

せ、切ねぇ~!!ライバルとか敵役とかではなく、親友や親子なのに毎回上手くいかないの切なすぎません!?(笑)
最近の他組のトップ&二番手が演じてきた関係性を思い返しているんだけど、のぞさきほど友情や家族愛をこじらせているところって他にない気がして…。普通に親友とか、普通にライバルとか…親友なのに殺しちゃうとかあまり見ない気がするんだけど??
別箱公演では違うものの、大劇場公演では何故か毎回どちらかがどちらかを殺す最後を迎える二人…何故なんだ…でもそこが堪らなく好きだ…(笑)

私はさきちゃんの、誰かと組んだ時のお芝居、特に深い愛情を抱いている相手と向き合う時のお芝居がとても好きです。
そしてこれまで、さきちゃんが向ける深い愛情を色々な形で受けてきただいもんのお芝居がまた滅茶苦茶好きなんです。
ドン・カルロも、ダントンも、キャリエールも、ジロエも、性格や年齢は全然違いますが、皆とても情が深い人々でした。
そして彼らの想いを、ドン・ジュアンは見向きもせず、マクシムは疑い、エリックは受け止め、カンイチは意地で突っぱねた。
こうして並べて見ると全部違って、全部大好きだなぁと改めて思います。
恋愛的な愛とはまた違う、様々な愛の形や複雑な人間ドラマを見せてくれる…そんなお二人だからこそ、濃い関係性の作品が多く生まれたのかもしれないな~なんて思う今日この頃です。

そして「ワンス」のヌードルスとマックス。
彼らの複雑な感情が、今度はどんなドラマを舞台上に生み出すのか…楽しみに楽しみにマイ初日を待ちたいと思います!

以上、「のぞさきがヌードルスとマックスを演じるということについて」語りでした。
最後までお付き合い下さった方、どうもありがとうございました!!

2019年12月4日

「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」について考える②-②

※原作映画を予習済みの方向けの内容です。
未見で読まれると何の話だかさっぱり分からない上に、重大なネタバレだけ知ることになるのでご注意ください。また、ここに書いたことは全て個人的な解釈です。
そして、この記事もまた滅茶苦茶長いです!!

【ここがヤバいよ、マックスさん!!の続き】

②マックスは何故ヌードルスを裏切ったのか

ワンスにおいてストーリーの肝となる、マックスの裏切り行為。
その理由についての解釈は人それぞれだと思いますが、個人的には行き過ぎた承認欲求かなと思っています。
マックスはヌードルスに、自分を理解して認めてくれることを望んでいた。
その想いが、ヌードルスを裏切り、彼を苦しめる結果を生んだ。
この辺、上手く文章化できるか分かりませんが…順を追って整理してみますね。

少年時代、似たようなチンピラ少年だったヌードルスとマックスの立場を決定的に変えたのはバグジー殺人事件でしょう。
バグジーを殺してしまったことにより、ヌードルスは9年間刑務所で過ごすことになりました。この時彼は17~18才。ちょうど少年から大人になり始める大切な時期に、彼は世間から隔離されてしまった。
ヌードルスが出所してきた時、肉体的には大人になったものの精神的には少年の頃のままだったのではないでしょうか。
それに対してマックスは、9年の間に自分の手で会社を興し、裏の世界での人脈を広げ、肉体的にも精神的にも成熟した大人になっていたんですね。
9年という歳月は確実に彼らの間に隔たりを作っていたのに、2人はそれに気付かず昔のように仲良くやっていこうとしてしまった。
これが2人にすれ違いが生まれてしまった大きな原因だと思います。

さて、一緒にギャング業を始めたヌードルスとマックスですが、中々しっくりいきません。
マックスが仕事を円滑に進めるために大物ギャング・フランキーの下に着こうと提案すれば、ヌードルスは「昔は『ボスは要らない』と言ってたじゃないか」と反対する。
マックスが禁酒法撤廃後は政治家とグルになって新しい商売を始めようと提案すれば、ヌードルスは昔と同じチンピラ稼業の方が肌に合ってると反対する。
ヌードルスにはマックスが話す「大人の流儀」が分からないし、知りたくもない。
少年時代のチンピラ稼業よりスケールの大きい仕事は、彼の理解の範疇を超えてしまっているのだと思います。

一方マックスには、9年間蓄積してきたノウハウを活用してヌードルスともっと大きな成功を掴みたいという野望があったのでしょう。そして自分の商才にも自信がある。
でもヌードルスの共感は一向に得られない。それどころか、彼の心は自分から離れていくばかり…。
仕事を取るのか、友情を取るのか…マックスは悩んだと思います。
彼が社会的成功を得るためには、考え方の違うヌードルスが足枷になるのは目に見えている。
ただ、マックスが成功だけを望む男だったならこの時点でヌードルスを見限ればよかったんですよね。それこそ、ジミーの病室で新しく運送業を始めようかという話になった時に、反対して出て行ったヌードルスを追いかけなければ良かった話。
ここでヌードルスを追いかけたということは、マックスはヌードルスとの関係を諦めることができなかったということでしょう。
自らの成功を掴むために潔くヌードルスとの別れを選んだデボラとは大きく異なる点ですね。

そしてマックスはフロリダのビーチで、無謀な銀行強盗計画をヌードルスに提案します。
これはもうハナから真剣な提案ではなかったと思います。砂に書いた、まさに「砂上の楼閣」のような話ですね。
では何故、彼はこんな途方もない話をし始めたのか。
私は、ヌードルスの関心を自分に向けさせることが目的だったのではないかと考えています。

この時マックスが一番望んでいたことは、ジミーの労働組合と裏で組んで運搬業を始めること。
そして自分のやり方をヌードルスに理解してもらい、今後も一緒に仕事を続けていくことです。
ただ、今まで通りの話し方では上手くいかないとも分かっている。

だからまず、子供でも無理だと分かる(ヌードルスでも無理だとすぐに理解できる)計画の話から始める。
そこでヌードルスが「冗談だろ」と笑うもよし、「できるはずがないからやめろ」と止めるもよし。とにかく一度彼と同じレベル(子供レベル)まで仕事の認識レベルを落として関心を引き、共通の感覚を得る。そこから「確かに連邦準備銀行は無理かもしれないが、俺はお前と一緒ならこれくらいデカい仕事もできると思っているんだ」と説得体制に移行し、段階的に自分の仕事についての考えを理解してもらう…。
イメージとしては、家庭教師が最初に担当する生徒の学力レベルを確認し、理解できる範囲から徐々にステップアップしていく、そんな感じ。
そして最終的に、ヌードルスから新しいビジネスについて賛同を得る。
これがマックスの狙いで、銀行強盗計画はそのためのブラフだったのではないかと思います。

ところがここでもヌードルスはマックスを突き放してしまうんですね…「お前は狂っている」という地雷ワード付きで。
この時ヌードルスがマックスときちんと向き合い、真意を探っていたら彼らの結末は全く違った形になっただろうなと思います。
しかしヌードルスは「自分がマックスの仕事を理解できないのは、彼が狂っているからだ」と考えることを放棄してしまった。

そしてマックスも、思いがけず地雷ワードを言われたことでカッとなってしまい、ヌードルスの説得に失敗してしまった。
この失敗により、マックスは言葉でヌードルスに自分を理解させようとすることを諦めたのでしょう。
口で言って分からないなら、実際に見てもらって理解してもらうしかない。
そう考えたマックスは、

・フランキーのような大物ギャングや政府高官を味方に付ければ、自分の死すらたやすく偽装ができること
・新しい仕事は多額の儲けを生み、社会的に成功できること

を行動で示そうとした。
その結果、マックスはベイリーとして生まれ変わり実業家としても政治家としても成功します。
ただ彼にとって誤算だったのは、ヌードルスが自分の成功にちっとも気付いてくれなかったことでしょう。
そう、マックスはヌードルスに自分が生きていると気付いて欲しかった。気付いて、自分の価値を認めて、必要として欲しかったのだと思います。

ただここで引っかかる点もあります。
何故、マックスは共同基金とデボラまで奪ったのかということ。
この点もちょっと考えてみますね。


●共同基金を奪った理由

マックスはヌードルスを出し抜いて、少年時代から貯めていた彼らの共同基金を奪いました。
ではマックスの目的は金だったのか?いいえ、彼はお金に困っていたわけではないので違うでしょう。
フロリダでヌードルスに話した100万$の蓄えというのは共同基金のことだと思いますが、それ以外に個人の資産もあったはず。ビーチでくつろいでる姿から見ても、金目的で親友を裏切るほど困窮しているようには見えません。

では何故金を奪ったのかといえば、考えられる理由は二つ。
一つは、死亡偽装後に自由に使える資金とするため。
ここでポイントになるのは、金だけが目的ならそもそもあんな手の込んだ死亡偽装工作をする必要はないということ。単に金を独り占めしたいだけなら、ヌードルス・コックアイ・パッツィの3人を不意打ちで殺害してしまう方がよっぽど簡単なはずです。
まず死亡偽装をするという目的があって、その後のことを考えて金も確保しておいたというところでしょう。

そしてもう一つは、自分の生存をヌードルスに気付かせるため。
繰り返しになりますが、マックスの最大の目的はヌードルスに自分の仕事を理解してもらうことです。
その証明の一つとして、マックスは自分の死を偽装するトラック事故を起こした。
ヌードルスを密売酒の運搬トラックには乗せず、不自然な程に黒焦げな替え玉死体を用意し、ロッカーの鞄の中身も先に入れ替えておく(鞄の中身に新聞紙を詰めておいたのも、身元判別が難しい遺体の死亡ニュースが早々に新聞で報じられるのはおかしいというヒントだったのかも?)

コックアイとパッツィは顔が識別できる状態で死んでいたし、ファット・モーはギャングに暴行されていて動ける状態ではなかった。恋人のイヴも殺されているし、キャロルは共同基金の存在すら知らない様子だった(フロリダでのマックスとの会話から)
ヌードルスが冷静に事態を把握していれば、この時点でマックス生存の可能性に気付けたかもしれません。そのための痕跡を、マックスは敢えて残していたのだと思います。
まぁ残念ながらヌードルスは最後まで全く気付きませんでしたけどね…。


●デボラを奪った理由

もう一つマックスがヌードルスから奪ったものと言えば女、そうデボラです。
マックスはデボラを少なくとも15年以上愛人として側に置いていたようですが、この二人に恋愛的な感情が芽生えるとはどうにも考えられないんですよねぇ…どっちもヌードルス一筋だし。

仮に愛が芽生えていたのなら、マックスは後妻としてデボラを迎えてもよかったのではないかしら。デボラの方も、楽屋でヌードルスと再会した時の態度がもっと違ってたんじゃないのかな。あの時のデボラは、マックスに会えばヌードルスがショックを受けると心配して、ヌードルスのために二人の再会を防ごうとしてましたからね。
そして何より、この二人は「恋より仕事」に生きる人たち。
お互いの利害が一致したから一緒にいると考えた方が、個人的には納得がいきます。

ではまず、デボラの方のメリットは何か。
彼女は年齢を重ねてもなお舞台で主演を務めるスター女優です。
が、女優としての成功を讃えて「君は年にも萎れぬ花だ」と褒めるヌードルスに「自分は年で萎れた花だ」と寂し気に語ります。そして彼女は今、大物政治家となったマックスと愛人関係にある。
おそらく、舞台の主役は自分の実力で得たものではなく、マックスの後援があるから回ってきた仕事ということなのではないでしょうか。
デボラはマックスをパトロンに迎えて主演女優の地位を守る。そしてマックスはデボラをベイリー財団の広告塔として利用する。両者にとって利益を生む関係です。

加えてマックスにとっては、デボラも自らの成功を示すカードの一つだったのではないかと思います。
デボラはかつて、愛していたヌードルスとの付き合いは断ちました。それは彼がギャングで、自分の女優活動の妨げになると考えたからです。
でも彼女は、嫌っていたマックスからの援助は受け入れた。これは彼がもうギャングではなく、実業家や政治家として社会的地位を確立していたからでしょう。

マックスは、社会的に成功すればデボラも手に入れられることをヌードルスに証明したかった。
これが、デボラを愛人にした理由だと私は思っております。


●全てはヌードルスに自分を認めさせるため

マックスが共同基金を奪ったのも、デボラを愛人にしたのも、目的ではなく手段に過ぎないと思います。
本当の目的は、ヌードルスに自分を認めてもらうこと。そして彼に必要としてもらうこと。
少年の頃、密造酒の運搬中に河へ落ちたヌードルスに、マックスはボートの上から「俺が必要だろ?」と問いかけました。
あの問いは大人になってもずっとマックスの中にあって、ヌードルスの「お前が必要だ」という答えを待ち続けていた。マックスは、ヌードルスに自分と同じボートに乗って欲しかったんだと思います。

ワンス初見時、「長官」と呼ばれる立場にまで上り詰めたマックスの生存が35年もヌードルスにバレなかったのは何故だろう?と不思議に思いました。
映画ではTVニュースの中でも顔は映し出されないけど(ネタばれになるから当たり前だけど)、マックスがベイリーとして有名になればなるほど顔が露出する機会もあったはず。もしヌードルスに知られたくなかったのなら、顔を整形して完全に別人になるか、NYから逃げたヌードルスを探し出して始末した方が安心ですよね。実際、35年経ってもヌードルスを見つけて呼び戻す力がマックスにはあったのだし。
でもマックスが「自分が本当は生きていることがバレてもいい、むしろヌードルスに気付いて欲しい」と願っていたのなら辻褄は合うと思います。

ただヌードルスはマックスが期待していた以上に鈍かったし、そもそも見ている世界が違っていた。
おそらくヌードルスには、マックスが見ている世界(生き馬の目を抜くような熾烈な競争社会)が見えないんです。
だからマックスがあれこれ痕跡を残しても、気付くことはないまま35年の月日が流れた。

そんなある時、マックスはこれまでの汚職の数々が露見して窮地に追い込まれます。裏で繋がっていた組織(ギャングたち)からトカゲの尻尾切りのように始末されることを察したマックスは、待ち続けたヌードルスを自分から呼び出すことにした。
35年間のことを全て話し、彼に最後の仕事を手伝ってもらおうとしたのです。
マックスはヌードルスに「友達を裏切った俺に復讐しろ、俺を殺せ」と言ったけれど、それはマックスの流儀にのっとったやり方なんですね。
そしてヌードルスは最後まで、マックスの仕事の流儀には賛同できなかった。
殺さないと決めたヌードルスに、マックスが「それがお前の復讐なのか?」と尋ねると、ヌードルスは首を振って「いや、俺の考え方だ」と答えます。

ヌードルスも、マックスに35年間裏切られていたことにはショックを受けた。
でもそれは今の彼を殺す理由にはならない。
自分の中のマックスはもう死んでいて、彼との「良い友情」は35年前に終わっている。
それでいい、とヌードルスは決めたんでしょう。

過去の幸福な思い出があれば生きて行けるヌードルスと、常に未来を見据えて高みを目指し続けるマックス。
彼らはとても仲の良い親友同士だったけれど、見ている世界があまりにも違いすぎた。
それが二人の間に裏切りと悲しい結末を生んだ原因なのだと思います。


③デボラとキャロル

マックスとデボラについては裏切った理由のところで大体語ってしまったので…(笑)
マックスとキャロルについてちょっと語りますね。

キャロルについて引っかかったのは、終盤のベイリー財団の施設でヌードルスと再会するところ。
これ何の施設なのかがよくわからなかったんですが、音声解説によるとベイリー財団が運営する福祉施設で、キャロルは現在ここで働いてるんだそうです。マジか。
で、キャロルはヌードルスに35年前のあの夜のことを語るわけですが…果たして彼女は本当に真実を語っていたのか謎なんですよね。

あの施設で働いているのだとしたら、キャロルがマックスの生存に気付いていないとは考えにくい。
というか普通に考えて、マックスがあの施設でキャロルを働かせてるんだろうなって思うよね…昔の恋人が別人になりすまして作った施設で働いてます、なんて偶然そうそうないでしょ。
であればキャロルも、マックスがベイリーという名で生きていることは知っている。
そしてそのことを、自分からヌードルスに知らせるつもりはない。
ついでに、マックスとデボラの関係についても彼女は勿論知っていて、知らないふりをしているのだろうなとも思いました。
デボラが映っている写真についてヌードルスが「この女優と知り合いか?」と尋ねた時、目を伏せて「いいえ」と答える表情とかね…あーキャロルはまだマックスを愛してるんだろうな、と感じて切なくなりました。

推測ですが、35年前キャロルはマックスが本気で銀行強盗をする気だと信じていたんでしょう。
だから犬猿の仲のヌードルスに頼ってまでマックスを止めようとした。
しかし全てはマックスの計略だった。彼女も自分が手駒にされていたことに後から気付いたはず。
にも拘わらず、35年経った今でもマックスの目の届く所にいる。

ヌードルスがいつまでもデボラを想い続けたように、おそらくキャロルもずっとマックスを想い続けていたのでしょう。
やっぱりこの二人似てると思うなぁ…貞操観念は緩いけど、本命には一途なところとかそっくり(笑)
そしてマックスに関してはライバルのような関係でもある。
キャロルがヌードルスにマックスの生存を教えなかったのは、「(マックスが話していないことを)自分が言うべきじゃない」というマックスへの気遣いと同時に、「教えてやる義理はないわ、自分で気付きなさいよ」というヌードルスへの対抗心もあったんじゃないかなぁ。
キャロルは惚れた相手がヤバい奴だったせいで大変な目に遭ってきたと思うけど、一途にその想いを貫く生き方はかっこいいなと思うのでした。


というわけで、滅茶苦茶長くなりましたが「ここがヤバいよ、マックスさん!!」考でした。
ワンスは長い映画ですが台詞量は控えめで、役者の表情や仕草、情景や音楽にストーリーを語らせる部分が多い作品だと思います。意図的に想像の余地を沢山残した作りになっているんですよね。
そのため「こういう台詞があったから〇〇と言える」と証明するのは難しく、ここに書いたことも想像の域を出ません。観た人の数だけこの作品の真実があると思います。

ただ、これだけ全力で読み解きたくなる作品やキャラクターたちに出会うことも中々ないので、とても貴重な出会いになりました!
そして改めて、雪組版のワンスがどういう解釈で描かれるのかが楽しみでなりません。
ということで、次は「のぞさきがヌードルスとマックスを演じるということについて」をまとめたいと思います!
最後まで読んで下さった方、どうもありがとうございました!!

「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」について考える②-①

※原作映画を予習済みの方向けの内容です。
未見で読まれると何の話だかさっぱり分からない上に、重大なネタバレだけ知ることになるのでご注意ください。また、ここに書いたことは全て個人的な解釈です。
そして、この記事また滅茶苦茶長いです!!

【ここがヤバいよ、マックスさん!!】

はい、私だけが楽しいワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ(以下ワンス)語り第二弾です。
何しろ内容が重い作品なのでサブタイトルだけでも明るく(?)してみようとしましたが、昭和生まれのセンス駄々洩れ感が半端ないですね!
と、それはさておき。
今回はマックスの解釈を中心に、ヌードルスとの関係、そしてデボラとキャロルについても語りたいと思っております。

まず最初にワンスの根幹の話をしますね。
この作品のヒロインはデボラで、ヌードルスは生涯を通じて彼女を愛しています。

それでも「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」はヌードルスとマックスの愛の物語である。

私はそう考えています。
これは最初に映画を見た時にも感じたことだったんですが、その時点では自分でも確信が持てませんでした。
腐女子歴が長すぎてそう見えちゃうだけかな~?と思って…(笑)

でもこの映画の字幕版と吹替え版を両方見て、ついでにBD映像特典のレオーネ監督のドキュメンタリーとか、タイム誌映画評論家の音声解説(※)まで全部見て、やっぱりこれはヌードルスとマックスの愛の物語だったなという結論に至ったわけです。
(※評論家のリチャード・シッケル氏のコメントによれば、レオーネ監督は「この映画に愛の物語があるなら、それはマックスとヌードルスの愛の物語だ」と語っていたそう。またデボラ役のエリザベス・マクガヴァンも「この映画はヌードルスとマックスのラヴストーリーであるべきだ」と語っていたとのこと。ということは私の解釈も見当違いというわけではないのね~とホッとしましたw)

彼らの愛を定義することは凄く難しくて、友情という言葉では弱すぎるし、同性愛とも違う。家族愛や兄弟愛に近い気もするけど、そう言い切ってしまうのも違和感がある。
お互いを深く想い、生涯の友と認め合い、自分の命もかけられる存在。それがヌードルスとマックス。
ただ彼らが上手くいかなかったのは、ヌードルスは思い出の中で生きる人間で、マックスは未来を見続ける人間だったから。
その決定的な違いが、二人を悲劇的な顛末に導いてしまった…という切ない物語がワンスだと思うのですよ。

さて、そんな二人を語るにあたり、3つのトークテーマを設けました(カフェブレ風)

①マックスがヌードルスを好きすぎるって話
②マックスは何故ヌードルスを裏切ったのか
③デボラとキャロル

というわけでまずは①から語ります!


①マックスがヌードルスを好きすぎるって話

2人の出会いは少年時代。大体17~18歳くらいの頃だったと思われます。
ブロンクスからロウアー・イースト・サイドへ引っ越してきたマックスが、ヌードルスのスリ現場に偶然通りかかり、酔っ払いの懐中時計を横取りしたのが最初の出会い。ヌードルスは獲物を横取りされたことに最初は腹を立てますが、何だかんだですぐにマックスと仲良くなり、一緒にチンピラ稼業を始めることになります。
そしてこの頃から既にマックスのヌードルス大好きっぷりが分かるエピソードがちらほら…というわけで、まずはマックスのヌードルス好きすぎエピソードを5つ語るよ!


1.デボラとのファーストキス覗き事件

過ぎ越し祭というユダヤ教の記念日に、モーの店でこっそりデボラとデートしていたヌードルス。憧れの彼女と念願のキスができたものの、マックスがその様子を覗いていたせいでデートが台無しになるという場面があります。

この時マックスは「街の人々が出かけている間に空き巣をするため、ヌードルスを誘いに来た」と話していますが、仕事の誘いに来たという割に他のメンバー(コックアイ・パッツィ・ドミニク)はいません。
ヌードルスがデボラを好きなのはちょっと見てればすぐ分かるだろうし、マックスに彼らを応援する気持ちがあるのなら、気を遣って他のメンバーを誘いに引き返してもよさそうなところ。でもあえてマックスは2人の邪魔をして、ヌードルスをデボラから引き離そうとする。
それは2人が結ばれるのを面白く思ってないからでしょう。

マックスにとってデボラは、ヌードルスを巡るライバルのような関係だと私は思っています。
マックスは親友のヌードルスと、自分なりのやり方で暗黒街をのし上がっていこうと考えている。そしてその障害となるのがデボラ。
彼女はマックスと対照的に真っ当な道でのし上がっていこうとしている人で、ヌードルスの想い人。そしてヌードルスに更生して欲しいと願っています。もし彼女の願い通りヌードルスがカタギの人間になってしまったら、マックスは大事な相棒を失ってしまうことになる。それは絶対に避けたい。

だからマックスは、ヌードルスとデボラとの接触を邪魔したのだと思うんですよ。
その女は俺たちの邪魔になるからやめておけ、的な感じというか。
ヌードルスが商売女といちゃつく分には全然構わないけど、自分との関係に支障をきたす存在は遠ざけたいんでしょうね。

そしておそらく、デボラもマックスを同じように考えていた。彼女にとってマックスは、ヌードルスを悪の道に引きずり込む諸悪の根源のような存在だったのではないかな。
ヌードルスの出所祝いパーティーで再会した際、「自分の出所日をマックスから聞いたのか?」というヌードルスの問いに「マックスから?いいえ、違うわ」とデボラが嫌そう~に否定していましたよね。
マックスと自分が関わりを持っていると思われるだけでも嫌なんだろうな…と思ったワンシーンでした。この二人、道ですれ違っても目も合わせないんじゃなかろうか(笑)

後にヌードルスが「マックスとデボラは似ている」と話す場面がありますが、これは本当にその通りだと思います。
マックスもデボラも上昇志向が強く、好きな人間も同じ。ただ、正攻法で上り詰めようとしているのがデボラで、手段を選ばないのがマックス。
この2人の対比も、ワンスの面白ポイントですね。
ついでに、どっちつかずでフラフラとチンピラギャングを続けてしまうヌードルスの人間性もこの2人によって浮かび上がってくる。
そんな面白さもあると思います。


2.2人で河にボッチャン事件

少年時代の数少ないハッピー(?)エピソードの一つ。
ギャングの密造酒運搬を手伝ってる最中、仕事の成功に喜んでボートの上で抱き合ったヌードルスとマックスが勢い余って河に落っこちる場面。
水面に浮かび上がったヌードルスはマックスの姿が見えないことに焦り、彼の名を呼んで必死に探します。しかし、実はマックスは先にボートに上がっており、自分を必死で探すヌードルスをニヤニヤ見ているという(笑)
そしてヌードルスに「俺が必要だろ?」と笑いかけ、ヌードルスは不貞腐れたようにマックスの顔に水を吹きかけるという微笑ましい一コマ…なんですが、この「俺が必要だろ?」というマックスの言葉こそ、彼が生涯にわたって抱いていた願望なのではと思うんです。

マックスがヌードルスを必要としていたのは間違いないと思います。
使用楽曲についての考察文でも書きましたが、マックスは理屈抜きにヌードルスが好きで、彼と一緒に成功を掴みたかった。
そしてその想いをヌードルスと共有したかったし、誰より彼に自分を認めて欲しかったのではないかな…マックスがヌードルスに向ける感情には、そんな承認欲求も含まれていたと思うんですよね。

ところで、大人になった2人が仕事で意見が対立し、その口論が終結した際に「泳ぐか?」という誘い文句が出てきます。
一度目は強奪したダイヤの受け渡し時に、依頼主のジョーを殺したことで口論になった時。
二度目は禁酒法撤廃後の仕事の方向性でもめて喧嘩別れしそうになった時。
一度目はマックスがヌードルスに、二度目はヌードルスがマックスに「泳ぐか?」と尋ねて「そうだな、泳ごう」ともう一方が答える。
これは河に落ちた時のエピソードから来ている、2人が仲直りする合言葉なのかもしれないなと思いました。それだけお互いにとって特別な思い出なんでしょうね。
ついでに、口論をすると先に折れるのは必ずマックスの方というのも、マックスとヌードルスの関係性がよく表れているなと思います。


3.再会は二人きりで

仲間のドミニクを殺された怒りで衝動的にバグジーを殺してしまい、9年間服役していたヌードルス。出所したその日、マックスは一人で刑務所まで彼を迎えに行きます。
そして感動の再会~!!
…はいいんだけどさ、この時マックスはコックアイやパッツィには嘘の出所日を教えて敢えて一人で行ってるんですよね!!!!!
ええもうここで察しましたよ…マックスにとって特別な存在はヌードルスだけなのだと。

だってヌードルスが刑務所にいた9年間、一緒に仕事をしていたのはコックアイやパッツィじゃないですか。チンピラの若造に過ぎなかった3人が、表の葬儀屋業でも裏のギャング業でも大金を稼ぐようになるまで様々な苦楽を共にしているはず。
マックスが心からコックアイやパッツィを大切な仲間だと思っているのなら、3人でヌードルスを迎えに行こうと思ってもおかしくない(ヌードルスが収監される時は3人+モーで見送っているのだし)
にも拘わらず、コックアイたちには出所日を偽って教えてまで一人でヌードルスを迎えに行っている。
これはもうヌードルスとの再会の瞬間を誰にも邪魔されたくなかったとしか思えないじゃんかー…マックスよ…そんなにヌードルスを独り占めしたかったんか、マックスよ…。

しかもヌードルスは「刑務所にいる間、家族が世話になった」とマックスに礼を言い、マックスは「お前の取り分だ。ちゃんと帳簿にもつけてる」と何てことないように返事をしている(この時ヌードルスはマックスが葬儀屋業を始めたことも知っていたので、何らかのやり取りはしていたのかも)
更に更に、ヌードルスの出所祝いとして、即座にお相手をしてくれる美女の娼婦とベッド(霊柩車だけど)まで用意しておくという気の回しよう。
なんつーか、もう滅茶苦茶ヌードルスが好きだよね…マックス。ちょっと健気にすら思えてきたわ。
マックスがここまで尽くす相手ってヌードルスだけだもんなぁ。

後にマックスが死亡偽装のトラック事故を起こした時も、コックアイとパッツィは巻き添えにして殺してしまってるわけですしね。そのことについてマックスが何の弁解もしていない点から見ても、彼らはマックスの「特別」ではなかったということでしょう。


4.ヌードルス>>>>>>女

とにかくヌードルスが大好きなマックスですが、性的嗜好はストレートの模様。キャロルとも何だかんだイチャイチャしてますしね。
ただ、そもそもマックスにとって恋愛って生きていく上で重要なことではないのだと思います。
仕事と女だったら迷わず仕事を取るし、ヌードルスと女だったら迷わずヌードルスを取る。それがマックス。
それが表れているなと思ったのが、デボラを暴行した末に失恋したヌードルスがマックスたちのいるアジトを訪れる場面。

傷心からアヘン窟に入り浸っていたヌードルスが久しぶりにアジトへやって来ると、マックスたちが自分抜きで仕事を進めていたことが判明。その件でヌードルスとマックスが言い争いになり、マックスが「一緒に仕事をする以上、女の問題を持ち込むな!」と怒るとヌードルスは「ならお前も自分の女を連れ込むな!」とキャロルが同席していることを責めます。
さらにキャロルを侮辱する言葉を続けるヌードルス。そこでキャロルが反論すると、マックスは彼女をかばうどころか「俺はこの女を愛しているわけじゃない!」と何故かヌードルスに弁解するようなことを言ってキレ始め、しまいには何も悪くないキャロルを怒鳴りつけて追い出してしまいます。

この場面、どう考えても悪いのは逆切れした上にキャロルを追い出すよう仕向けたヌードルスだと思うんですけどね。売り言葉に買い言葉とはいえ、ヌードルスの望み通りにキャロルを追い出しちゃうマックスもさぁ…!お前、ホントそういうとこだよ!!(笑)
キャロルは被虐嗜好のある女性なので、マックスはわざと横暴な態度を取ったのかな?とも一応考えてみましたが、まぁないでしょうね…キャロルには気の毒ですが。

だってさぁ、ヌードルスとマックスが言い争いを始める少し前に、コックアイがアヘン窟へヌードルスを探しに行った時の話をするじゃない?その時、アヘンの幻覚作用でコックアイを「デボラ」と呼んだことをからかうと、マックスは即座に「よせ!」とコックアイを制止するんですよ。
ヌードルスがからかわれた時と、キャロルが侮辱された時の反応の違いが顕著すぎて、わたしゃもうチベットスナギツネ顔で2人を見ているしかなかったわ…。

マックスにとって大切なのは、ヌードルスと一緒に仕事をすること。
そのためならヌードルスに注意を促すこともあるけど、他の誰かがヌードルスを馬鹿にするのは許さないし、ヌードルスと自分の間に割って入るのは(一応)恋人ですら許さない。
そう、それがマックス!!(書いてて段々面白くなってきました)

しかしマックスも相当ひどいけどさ…「キャロルを部屋から叩き出せばいいのか!?」とまくしたてるマックスにウンともスンとも言わず、黙って新聞に目を落として肯定するヌードルスも大概ひどい男よな~!?
「そこで黙りこむのずるくない!?都合が悪くなると黙る子供か!?」とメモを取りながら思わず突っ込んでしまったわ(笑)

そもそも何故ヌードルスはキャロルを嫌っているんだろうか…?
性に奔放なところが気に入らないのかとも思ったけど、同じく貞操観念ゆるゆるなペギーとは昔から仲良くやってるからそういうわけでもなさそう。となると、ヌードルスも自分とマックスの間に割り込んでくる女が気に入らないとか??(この場面の冒頭、マックスとの会話にキャロルが割り込んできた時に固まってたもんな)
マックスとデボラがヌードルスを巡るライバルであるように、ヌードルスとキャロルもマックスを巡るライバルなのかもしれない。
…あ~ホントめんどくさい男たちだよ、ヌードルスとマックス…!


5.お墓と息子の件

ワンスの現在(1968年)パートは、謎解きミステリーのような面白さもありますよね。
35年ぶりにヌードルスをNYへ呼び戻したのは誰なのか、という謎を解くため様々な手掛かりや情報を集めて真相に至るという。
この過程もワンスの面白さの一つですが、結末を知ってから見返すと「これ全部マックスがヌードルスを自分の元へ呼ぶために仕込んだことなんだよな…」とあまりの手の込みように呆れるやら感心するやら、何とも言えない気持ちになります。
さすがヌードルスのためならどんな苦労もいとわないマックスだよ。ある意味天晴だよ。

その中でも特に驚いたのはヌードルスの名前で建てたお墓(霊廟)と、息子の名前。あれびっくりしたわ、ホント!!
ヌードルスが35年ぶりにモーの店を訪れたのは1968年11月(TVニュースの日付より)
そのきっかけとなったユダヤ教会からの墓地移設の案内状発送は1968年3月頃。
ただ、霊廟の建立年は1967年となっていました。つまりユダヤ教会からの案内があった時にはもう、マックスたちのお墓は移設済みだったということになります。
ということは、墓地移設の案内状をヌードルスを呼び戻すために使ったのは、あの霊廟へヌードルスを誘導するためだったと考えられる。マックスが与えた最初のヒントが「お墓」で、連想させるために墓地移設案内状を使うのが丁度良かったのかもしれません。

手紙の誘導通りに霊廟を訪れたヌードルスが壁の銘文に気付くよう、そこへ鍵をぶら下げる。銘文を読んだヌードルスは驚き、訝しみながらも、「鍵」というヒントを元に今度は駅のロッカーへ。
そしてそこで現金と「仕事の依頼」を見つける。
謎解きゲームのようにヒントを一つずつ渡して、自分の元へヌードルスを導こうという算段ですね。このまだるっこしさにもマックスの性格や願望が表れているな~と思います。
(一つ分からないのは、ヌードルスがいつベイリー長官邸のパーティー招待状を受け取ったのかってことなんですが…ベイリーというヒントはTVニュースで映画を見ている観客には伝えられるので、招待状云々は編集でカットされたのかもしれないな~と思っています)

で、話を戻してお墓ですよ。
マックスは死んだことになっているので、墓を移設するのは分かる。
でも別にあんな立派な霊廟を建てる必要はないし、そこに「建立 ヌードルス」なんて銘文を刻むのホント…何考えてんだよ~マックス~~!?

…いや、ヌードルスのことだわ。マックスが考えてるのヌードルスのことしかなかったわ、そうだわ。

というわけであれは、マックスの願望墓だと思います。
「ヌードルスが自分(とコックアイ&パッツィ)を想って立派な墓を建ててくれたら嬉しいな☆」というマックスの願望の結晶。それがあの墓。
例えるなら、好きなアイドルの名前を婚姻届の「夫(妻)になる人」欄に書き込んで妄想にふけるドルオタのようなもの。
マックスの場合その願望というか妄想を形にできるだけの財力があったので、あんな墓を作っちゃったんじゃないかと思います。
それ以外の理由が私には思いつかんかった…有り余る愛と金がなきゃ建てないよなぁ、あんなの…。

あと息子!!
息子にヌードルスと同じ名前(デイビッド)を付けるとかさ…もはや愛以外に何の理由があるというの…???
デイビッド君は見た感じ20才前後くらい?ということは、ヌードルスと生き別れてから15年以上経っていた頃にマックスは自分の一人息子にヌードルスと同じ名前をつけたってことで…更につい最近も、ヌードルスの名前で過去の自分の墓を作っちゃったりしてるってことで…。
…マックス…お前、ほんと、さぁ……。
おそらく何も知らずに亡くなったであろうマックスの奥さんと、やっぱり何も知らないだろうと思われるデイビッド君…せめてデイビッド君の未来が明るいものであるよう願いたいですね…。

あ、そうそう名前と言えば、ヌードルスの本名はデイビッド・アーロンソンと言うらしいですが(霊廟の銘文より)、何で「ヌードルス」って呼ばれてるのかが未だに分かりません!!(笑)
マックスは本名のマクシミリアンからの愛称だし、パッツィも本名パトリックだから分かる。コックアイは本名フィリップだけど、彼は斜視でコックアイという仇名が付いたのだろうと思う。
でもヌードルスがどっから来てるのか分からねぇ…理由をご存じの方がいらっしゃったら是非教えて下さい(笑)


はい、以上「マックスがヌードルスを好きすぎるって話」語りでした。
他にも色々あるんだけど切りがないのでこの辺で…マックスのヌードルス愛が半端ないってことが伝わっていましたら幸いです。
そしてこの時点で滅茶苦茶長い記事になっているので、続きは次の記事にします…。

2019年11月23日

「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」について考える①

※原作映画を予習済みの方向けの内容です。
未見で読まれると何の話だかさっぱり分からない上に、重大なネタバレだけ知ることになるのでご注意ください。また、ここに書いたことは全て個人的な解釈です。

それと、この記事長いです!!


「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」。
大好きな雪組でのミュージカル化が決まらなければおそらく一生見ることもなかっただろうこの映画、「観劇前に予習しとこ☆」と軽い気持ちで視聴したのが2019年10月上旬。
それがまさかこんなに深い沼にハマることになろうとはね~…いやはや自分でもびっくりです。

それもこれも、さきちゃんが演じる予定のマックスが色んな意味でヤバい奴だったから!!!!!(笑)

これに尽きます。
ただ初見時はストーリーを理解するのに手いっぱいで「マックスって何かヤバくないか…?」と思いつつも、どうヤバいのかが自分の中でも全然まとまりませんでした。だってなげーんだもんこの映画…!!
今一般的に出回ってる「完全版」で229分ですよ。229分。カップ●ードルが76個作れちゃう時間。「エクステンデッド版」は更に長くて251分あるんですって、アンビリーバボー!

でもそんな長~い映画を見て確かに感じたこと。それは「マックスはヌードルスをこじらせすぎていてヤバイ」ということ。
では彼はどこでどうこじらせてしまったのか…?
その答えを探るため、私は決意した。

そう、映画の内容を全て書き起こそうと…!!(クレイジーですね!!!)

作品の謎は作品の中に答えがあるはず。
であれば丁寧に内容をさらうしかない!!と考え書き起こし作業を始めたものの、映画をまた頭から見返し、内容や台詞のメモを取り、それをノートに清書して…ってやってたらノート完成まで1か月以上かかったし軽く腱鞘炎になったのであまりお勧めはしません。
いや、勧めても誰もやらんだろうけど。

まぁそんなわけで前置きが長くなりましたが、私なりにこの映画を解釈してみた話、そして今の雪組(というかのぞさき)がこの作品を上演することについて語ってみたいと思います。
語りたいのは主に3点。

●映画で使用されている楽曲とその意図について
●ここがやばいよ、マックスさん!!
●のぞさきがヌードルスとマックスを演じるということについて

書いてるうちに他にも語りたいこと出てきそうなんだけど…そん時はそん時だな(笑)
というわけで、最初は「映画で使用されている楽曲とその意図について」から!


「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」(以下ワンス)は、劇中で流れる美しい音楽も魅力の一つ。
映画音楽の巨匠・モリコーネが作曲した音楽はもちろんですが、ポピュラーミュージックも印象的に使われています。
そしてその音楽が、作品を理解する重要なポイントになっていると思うんですね。レオーネ監督作品の特徴の一つに、「音楽にストーリーを語らせる」という手法があるらしいし(Wiki情報)
というわけで特に印象的な4曲について紹介しつつ、私なりの作品解釈を書いてみます。


①「God Bless America」…作品全体への監督からのメッセージ

私はこの映画で初めて知ったんですが、アメリカでは第二の国歌と称される程親しまれている曲だそうです
1918年、ユダヤ系アメリカ移民のアーヴィング・バーリンによって作詞作曲された曲で、舞台の劇中歌として作られたものの使われないままお蔵入りになってたのだそう。
それから20年後の1938年、ナチスドイツの台頭に憤ったバーリンはアメリカ愛国歌として改めてこの曲を世に送り出そうと考えます。歌の内容は、「アメリカに神の祝福がありますように」という愛国心に溢れたもの。人気歌手ケイト・スミスが歌ったこともあり、ラジオで流れるやいなや大人気となったこの曲は全米中に広まったのだとか。

ワンスの中では、映画の冒頭と終盤にこの「God Bless America」が流れます。
まず冒頭の出演者クレジットから、イヴが登場する辺りまで。
そして終盤の、若者たちを乗せた自動車がヌードルスの横を通り過ぎていく場面。
OPテーマとEDテーマみたいな感覚ですかね?正確にはEDではないけれど。

ただ正確性を考えると、映画の冒頭でこの曲が流れるのはちょっとおかしい。
というのも、ケイトが「God~」を歌ったのは1938年。
そして映画冒頭のシーンは1933年。
時代が合わないんですよね。他の挿入曲は一応時代が合っている(と思う)ので余計にこのずれが目立つ。

なのでまぁ色々考えた結果、この曲こそ作品全体に込めたレオーネ監督のメッセージなんだろうな、と思うことにしました。
付け焼刃知識ですが、レオーネ監督はイタリア人で英語も殆ど話せなかったのだそう。ただ幼い頃からアメリカに強い憧れを抱いていた。寡作の映画監督ですが、代表作と呼ばれる作品はアメリカをテーマにしたものばかりです。そんな憧れの結晶の一つが「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」という作品だったのでしょう。

ワンスの中ではアメリカという国の近代史、それも血生臭いギャングの抗争や彼らと癒着していた政治家などあまり褒められたものではない暗部が描かれています。
ただ映画を見ていても、アメリカのそんなダークサイドを強く批判したり、逆に礼賛したり、という主張は感じませんでした。
清濁併せ呑むというのかな…おそらく、アメリカの華やかでエネルギッシュな面も、ダークで混沌とした面も、全部ひっくるめて監督は大好きだったんだろうな~と思うんですよ。愛がなければ、こんなに長くて執念のこもった作品は作れないんじゃないかな。

セルジオ・レオーネが長年憧れ続けた「アメリカ」という国を寓話的に描いたこの作品。
作品内で描かれた「アメリカ」は実際のアメリカとは異なる部分も沢山あることでしょう。モデルになった実在の人物はいても、そもそもフィクションだし、様々な描写も誇張されている。外国人が考えた想像の中のアメリカに過ぎないと捉えることもできるかもしれない。
それでも監督はアメリカを心から愛している。
そんなアメリカ愛、アメリカ賛歌の想いが「God Bless America」には込められていたのでしょう。私はそう感じました。


②「アマポーラ」…ヌードルスにとってのデボラ

2曲目は「アマポーラ」。映画の中で最も印象的に使われている曲ですね。
1924年にスペイン出身の作曲家ホセ・ラカジェが発表したラブソングですが、これはヌードルスにとってのデボラを象徴する楽曲なんだなぁ…と歌詞を見て↓思いました。


ひなげしよ、美しきひなげしよ、
いつだって僕の心は君だけのもの
君が好きだ、僕の愛しい子、
花が昼の陽射しを愛するように

ひなげしよ、美しきひなげしよ、
嫌な顔をせずに私を愛しておくれ
ひなげしよ、ひなげしよ
君はどうして一人でいられるのだろうか
Wikipedeiaの日本語訳より引用)


わたくし、曲は知っていてもどんな歌詞かは知らなかったんですよ。そしたらまぁ超~~ヌードルスっぽい曲だったのでレオーネ監督の選曲センスに膝を打ちました。いや、アマポーラ以外の曲も膝打ちっぱなしなんですけどね!

ストリートキッズ上がりのギャングという闇の世界で生きてきたヌードルスにとって、デボラは光の世界で生きている憧れの人。
少年の頃から、そして年老いてもなお、ヌードルスが恋焦がれ続けたのはデボラただ一人。まさに「いつだって僕の心は君だけのもの」なんですよね。
ただ、悲しいかなこれは片想いソング。
「嫌な顔をせずに私を愛しておくれ」という歌詞がヌードルスにハマりすぎていて何かもう切なくなっちゃったよ…。
デボラもヌードルスにはずっと心惹かれていたし、本当に好きだと思ったのはヌードルスだけだというようなことも言っている。ただ彼女は恋のために何もかも捨てる人間ではなかった。女優として成功するためには、ヌードルスのギャング業が障壁になることを分かっていたんですよね。
だから彼女は、いつまでもギャングを続けているヌードルスに「嫌な顔」をし続け、好意を伝えても彼の手を握り返すことはしなかった。おそらく、ヌードルスがカタギの仕事に鞍替えしていたらデボラと結ばれる未来もあったんじゃないかなと思います。

そして個人的に面白いなと思ったのが歌詞の「君はどうして一人でいられるのだろうか」という部分。
デボラはヌードルスの想いに応えはしなかったものの、他に恋人を作ったりはしなかった。
ヌードルスにとっては、自分のものにはならなかったけど誰かのものになったというわけでもない。
ずっと一人で咲き続けていてくれる孤高の花、それがデボラ。
だからこそ、ヌードルスの心にいつまでも咲き続けていたのかもしれません。

ところが物語の終盤、デボラが誰かのもの(マックスの愛人)になってしまったことが判明!
それが明かされる楽屋での場面でも「アマポーラ」がBGMで使われるんですが、ここだけ大分印象が違うんですよね。
それまでに使用される場面は
・少年時代、デボラのダンスをヌードルスが覗き見るシーン(2回)
・青年時代、ヌードルスとデボラの再会シーン
・青年時代、ヌードルスとデボラのデートシーン
の主に3つ。
どれもヌードルスにとってはデボラとの美しい思い出の場面であり、「アマポーラ」のメロディも美しくドラマティックに流れます。

それが楽屋の場面では、モリコーネ作曲のBGMに交じって「アマポーラ」の主旋律だけが聞こえる、という使われ方をしているんですね。
これはデボラがもう「一人で咲き続けていてくれる花」ではなくなってしまったことを表しているのと同時に、ヌードルスの美しい思い出が失われたことを表しているのかな、なんて考えました。

ワンスでは「思い出」や「喪失」が大きなテーマにもなっているので、そういう意味でもとても印象的なアレンジだと思います。


③「Yesterday」…ヌードルスにとってのマックス

3曲目は「Yesterday」。
ザ・ビートルズが1965年に発表した世界的大ヒットソングですね。
ポール・マッカートニーが亡くなった母親を想って作った曲らしいのですが、それが明かされたのは2001年のこと。それまでは「自分の元を去っていった恋人を想った曲」と解釈されていたそうなので、映画公開時の1984年の解釈もこちらでしょう。

で、私が気付いた限りですがワンスでは2回BGMに使われています。
1回目は、35年ぶりにNYへ戻ってきたヌードルスが駅に佇んでいる場面。
そして2回目は、最後の最後にマックスと決別する場面。

1回目の使われ方は、「時の流れ」を印象付ける意味が強かった印象です。
1933年のあの日、街から旅立ったヌードルスはもう過去のこと(=Yesterday)である。そしてこの映画は過去と現在(1968年)を描く物語である、という映画の導入的に使われたのかなと思います。

それに対して、2回目の使われ方は…正直しんどい!!(だがそこが良い!!)
「アマポーラ」の項で、ワンスは「思い出」や「喪失」が大きなテーマになっていると書きましたが、それが一番如実に表れているのがこの場面ではないかなぁ…。

物語の終盤、ヌードルスは自分が殺してしまったと思っていたマックスが実は生きていたこと。彼に裏切られ、金だけでなく愛するデボラまで奪われていたことを知ります。そして「お前を裏切った俺に復讐しろ。俺を殺せ」とマックスに迫られて逡巡する。
しかしその瞬間、彼の脳裏には少年時代のマックスとの幸せな思い出がよみがえってくる。遠く失われた、もう二度と戻らない大切な時間。
ヌードルスがそんな記憶の淵から戻ってきた瞬間、「Yesterday」がBGMで流れ始める…。


Why she had to go I don't know she wouldn't say
I said something wrong,now I long for yesterday
(彼女は何故離れて行ってしまったんだろう?僕には分からないし、彼女も言わないだろう。
 僕が何かまずいことを言ってしまったのかな。今、僕は昨日に焦がれている)


↑まさに「Yesterday」の歌詞の心境だと思うんですよ、この時のヌードルス。
マックスが何故ヌードルスを裏切ったのか。それはマックスの口からハッキリとは語られません。
それでも、いつしか生まれたヌードルスとの心の溝がこんな結末を招いたことは、これまでの彼らを見ていれば分かる。
そして、ヌードルスが「戻れるものなら、無邪気に笑い合った少年時代に戻りたい」と願っているであろうことも。

青年だった1933年にも、年老いた1968年にも、過ぎ去った幸福なひと時に焦がれていたのがヌードルス。
「Yesterday」はそんな彼の人となりを、非常に上手く表した一曲だと思います。
彼にとって「自分の元を去っていった恋人」とは、マックスと過ごしたかけがえのない少年時代だったのではないでしょうか。


④「Night and day」…マックスにとってのヌードルス

最後はこちら、「Night and day」。1932年にコール・ポーターが発表した大ヒット曲です。
この曲も気付いた限りでは2回劇中で使われています。
1回目は、ヌードルスとマックスがバカンスで訪れたフロリダのビーチの場面
2回目は、終盤でヌードルスがベイリー長官ことマックスの屋敷を訪れる場面

これはねぇ…解釈で悩みましたが、マックスからヌードルスへのラブコールなのかなと思っています。
改めて別の記事で触れたいと思いますが、マックスとヌードルスの関係って両片思いだと思うんですよね。
彼らの想いは恋愛的なLOVEではないと思いますが(少なくともヌードルスはそう。マックスは…分からん)、親友として心から愛し合っている。
でもお互いの見つめている方向が違うので、どうしてもすれ違ってしまうという。

そういう前提で、まず1回目のビーチの場面から考えてみます。
フロリダに来る直前、ヌードルスとマックスは仕事の方向性の違いから喧嘩をします。そして「もう話しても無駄だ」とばかりに出て行ったヌードルスを、マックスが慌てて追いかけて「考え直した」というようなことを伝え、仲直りの証としてて二人(+それぞれの恋人)でフロリダにやって来る。
でも、マックスの「考え直した」は口先だけで実際はそんなことないんですよね。ヌードルスが離れて行ってしまうのが嫌だから、その場をやり過ごすために出た言葉。そんな感じ。


Night and day under the hide of me,
There's an oh, such a hungry yearning, burning inside of me.
(夜も昼も 心のどこかで あなたを求めてやまない気持ちが燃え盛っている)


↑この歌詞ほど情熱的ではなかった…かもしれませんが、マックスは少年の頃から、大人になってもずっとヌードルスを必要としていたと思います。ヌードルスにとってデボラが心の支えだったように、マックスにとっての心の支えがヌードルスだったんじゃないかな。これは理屈云々ではなく、純粋にマックスはヌードルスが大好きで、彼と生涯の友でいたかったんでしょう。
だからマックスは、ヌードルスとの関係が上手くいかなくなっていることに悩み、この先も関係を続けていくための道を模索していた。そんな心情が「Night and day」に表されてるのではないかな、と思います。

そして2回目にこの曲が使われるのが、ベイリー長官邸の入口にヌードルスが立つ場面なんですよねぇ…。
この時ベイリー邸ではパーティーが開かれているので、「Night and day」はパーティー会場のBGMとして使われているのかなと思ったのですが…入口でそれが流れているってのが、さぁ…!!
入口って来訪者を迎える場所じゃないですか。そしてこの日マックスが一番会いたかった人はヌードルスじゃないですか…。
もーホント、マックスそういうとこな!?
結局、ヌードルスを手ひどく裏切っても、マックスがヌードルスを求める気持ちはずっと燃え続けてたんだろうと思うんです。じゃなきゃ息子にヌードルスと同じ名前をつけたり、ヌードルスの名前で自分の墓を作ったりしないだろうと思うので。


And its torment won't be through
'Til you let me spend my life making love to you,
Day and night, night and day.
(そしてこの苦しみが止まることはない 
 あなたと生涯愛し合えるようになるまでは 夜も昼も 昼も夜も)


先ほどの歌詞の続きです。
マックスがヌードルスを求める想いは恋にも似た苦しみを伴った。そしてその苦しみは今も続いている。35年間、変わることなく。
そんなマックスの心の内がこの曲に込められているのではないかな、と私は考えております。

あ、「じゃあ何でマックスはヌードルスを裏切ったんだ?」という点についての解釈は長くなるのでまた改めて!


⑤おまけ

4曲だけ紹介と思ったけど、他の曲のことも調べたので折角だからちょこっと書き残しておきます(笑)

●「泥棒かささぎ 序曲」

映画中盤、赤ちゃん取り換え事件の場面で流れる曲。ロッシーニ作のオペラ「泥棒かささぎ」の序曲です。
暴力的な描写が多いこの作品の中で、とてもユーモラスな場面ですよね~。やってることは酷いんだけど、音楽の軽妙さとあいまって悪ガキたちの悪戯みたいに見えてくるという(笑)
台詞の音声も一切入らないので、まさに「音楽にストーリーを語らせる」という使われ方ですね。

「泥棒かささぎ」は、ヒロインが奉公先で銀のスプーンを盗んだと疑われて処刑されかけるんだけど、間一髪で犯人が鳥のカササギだったと分かって無罪放免。最後には恋人とも結ばれてハッピーエンド、という物語。

赤ちゃんを盗むことなく居所を分からなくするというヌードルスたちの犯行内容にも合っているし、これまた巧みな選曲だと思います。


●「Summertime」

ジョージ・ガーシュウィンが1935年にオペラ『ポーギーとベス』のために作曲した超有名なアリア。
これまた映画の終盤、ヌードルスとマックスが対峙する場面で使われています。
具体的には、ヌードルスがマックスを殺さないと決め、立ち去る前に最後の言葉をマックスにかける辺り。
この曲についての解釈は自分の中でもまだ固まってないんですが…これ、子守歌なんですよね。


夏になれば暮らしは楽になるよ だから坊や 泣くのはおよし
いつか坊やも大空へ羽ばたいていくだろう
でもその時までは父さんと母さんがお前を守るからね


「Summertime」の歌詞をざっくりまとめると↑な感じ。
そしてヌードルスはこの時、マックスの無事を祈りながら「おやすみ」と言って去っていく。
ヌードルスが心からマックスの無事を祈っていたのか、口先だけの慰めだったのか、はたまた皮肉だったのか。本当の所は分かりません。それでもヌードルスにも、マックスが彼なりに自分との思い出を大切にしていたことは伝わっていた(懐中時計を見た時の表情にそれは表れていると思う)
だからこそ「お互いに辛かった」という言葉が出てきたのかな、と。
 「Summertime」 は35年以上すれ違い、お互いに苦しみ続けた二人の男の魂を慰めるための子守歌であり、鎮魂歌だったのかもしれない。
そんな風に今は考えています。


というわけで、「映画で使用されている楽曲とその意図について」のお話でした。
最後まで読んで下さった方、いらっしゃいましたらどうもありがとうございました~!!
「ここがやばいよ、マックスさん!!」と「のぞさきがヌードルスとマックスを演じるということについて」についてはまた改めて書きたい所存です。

2019年9月8日

ここが分からんダーイシ脚本 雪組「壬生義士伝編」

「壬生義士伝」を映画版→宝塚版→原作小説の順に履修した結果すっかり原作ファンになり、宝塚版のダーイシ(石田昌也先生)脚本にモヤモヤして仕方なくなったので発散するために書いた文章です。
宝塚版で一番モヤモヤした「淀川決戦で貫一郎が特攻する場面」については先に書きましたが(こちらの記事)それ以外にも「なんでやねん!?」と突っ込みたくなる描写が多かったので…「ここが分からんダーイシ脚本」として記事にしました。大好きな雪組の舞台を心から楽しみ切れず、モヤモヤが残ってしまった自分自身への供養でございます。南無。
あ、ちなみに原作小説のネタバレを多大に含みますのでこれから読むつもりという方はご注意くださいませ!!

まず、基礎知識として原作小説の構造について。

●吉村貫一郎の独白と、貫一郎のことを知る複数の人物による回想パートとが交互に紡がれ、過去と現在二つの時間軸でそれぞれストーリーが進行する形式になっている。
●貫一郎の独白は鳥羽伏見の戦いの後、南部藩蔵屋敷に辿り着いた所から彼が命を絶つまでの時間軸。
●回想パートの時代は明治維新から50年後(大正5年頃)。吉村貫一郎のことを調べている新聞記者が、幕末の彼を知る人物に会いに行ったり手紙をやり取りして取材するというもの。取材対象となった人物(各パートの語り手)は下記の通り。

・居酒屋「角屋」の店主(元新選組隊士)
・桜庭弥之助(大野千秋の友人で、南部藩時代の貫一郎の教え子)
・池田七三郎(元新選組隊士。縣千君が演じた池波六三郎とほぼ同じ人物)
・斎藤一
・大野千秋
・佐助
・吉村貫一郎の次男
(・大野次郎右衛門)

大野次郎右衛門のパートはジロエが直接語るわけではなく、彼が残した手紙が本文になっています。
とりあえず、宝塚版では明治維新から18年後に当時を振り返っているのに対し、原作では50年経ってから振り返っているというのだけ頭の片隅に置いておいてください。

んでは本題の「ここが分からんダーイシ脚本」について、

①鹿鳴館で「斎藤一」と派手に紹介されることについて
②谷三十郎殺しの件で斎藤一から金を受け取った貫一郎の描写について
③大野次郎右衛門の最期について
④鹿鳴館チームのことも改めて物申したい

の4点を言及していくよ!


①鹿鳴館で「斎藤一」と派手に紹介されることについて

まず大前提として、史実の斎藤一は明治時代には藤田五郎と改名しています。
以前雪組で上演した「るろうに剣心」に登場する斎藤一も、初登場時に「今は藤田五郎と名乗っている」と話していますよね(まぁ、劇中で誰も藤田なんて呼んでないけど…)
改名の理由は色々あるでしょうが…普通に考えれば、新選組が新政府側から恨まれまくってるからでしょうね。何しろ薩長の維新志士を殺しまくってるわけだし、元新選組なんてことが知れたらいつ何時「同志の仇!!」と命を狙われるか分からない。実際、原作では戊辰戦争後に新政府軍が新選組の生き残りを探していた様子も描かれています。
「壬生義士伝」の斎藤一はあの性格なので「別に仇討ちなど恐れていなかった」なんて言ってますが、それはさておき。

原作の語り手として登場する元新選組隊士は、明治維新から50年経っても未だに「仇討ちされるのでは」という懸念を抱いていたりします。皆もうすっかりおじいちゃんになっているのに、です。
それくらい新政府軍と旧幕府軍の争いははお互いに禍根を残したし、旧幕府側だった人間は非常に肩身の狭い思いをして明治の世を生きていた…ということが原作小説では克明に描かれているんですね。

つまり薩長出身者が支配する明治時代に、それも明治18年のまだまだ幕末の志士たちが元気な頃の東京で「元新選組の」と大声で名乗るなんておかしくないか?ってことです。
劇中で池波君が暴漢に名乗りをあげたかと斎藤に尋ねますが、「あげるわけねーだろ!!」と観劇の度に心の中で突っ込んでおりました…(笑)
たとえば、

暴漢「つ、強い!てめぇ何者だ!?」
斎藤「警視庁警部補、藤田五郎だ」
暴漢「藤田…?もしかして元新選組三番隊組長、斎藤一って噂の!?」
斎藤「噂が本当かどうか、試してみるか?」
暴漢「ひっ…!くそ、引くぞ!!」

と暴漢側に語らせて、その後みつが「元新選組の斎藤一様というのは本当ですか?」と話しかければ、時代背景に沿いつつ話が進められたのでは。
何でこんな細かいことを気にするかと言うと、先述の通り旧幕府側の人間が明治になってどんな罰や差別を受けたのかということも原作では語られているからです。そして彼らが、どれだけ歯を食いしばって困難を乗り越えていったのかということも。
それらは全て、原作者の浅田次郎先生が綿密な取材の上で書かれたことでしょう。そうして長い長い時間をかけて大切に描かれた原作の世界観を軽視するような表現が、私はどうにも我慢ならんのでした。
原作には!最大限の敬意を!!払ってくださいよ!!!


②谷三十郎殺しの件で斎藤一から金を受け取った貫一郎の描写について

これはねぇ…原作ファンからしたら淀川決戦の特攻シーンと同じくらい怒り心頭の描写だったのではないかと思います。
谷三十郎を殺したのが斎藤一だと見破った貫一郎が彼から20両の賂(まいない)を受け取る場面、私が観劇した時は毎回くすくす笑いが起こっていました。それはやはり、貫一郎の「20両で、よがんす」でそれまでの緊張感が一気に緩むから。ルサンクに掲載されている脚本にも、貫一郎が「ニヤリ」として20両を要求すると書いてあるのでそういう意図を狙った演出だったんでしょう。
更にその後、沖田・永倉・原田がワイワイ出てきてアドリブもあったことで「ちょっと笑える場面」みたいな印象が強くなってました。
が。
この場面、原作の斎藤一による回想では次のように描かれています。

 おなごのように長いまつげをしばたかせながら、吉村は足元に目を落とし、いきなり意想外のことを呟いた。
 「ならば斎藤先生、わしに銭こば下んせ」
 とな。
 (中略)卑しい言葉を口にしたとたん、奴は口中に残った毒を噛み潰すかのようにきつく目をつむり、唇を引き結んだのじゃ。眦には涙すらうかべておった。
 奴は意に添わぬつらい言葉を吐いたのじゃろう。
 (中略)ただわしが言えるのは、あの吉村貫一郎という侍は決して本性からの守銭奴ではなかった。銭のためなら何でもするという類いの、卑しい侍ではなかった。
 【浅田次郎「壬生義士伝・下巻」2002年 文芸春秋刊 より引用】

…おわかり頂けただろうか。
全っっ然違いますよね!!ニヤリと笑うどころか、したくもない強請りをするのが辛くて泣いてるんですよ貫一郎は!!
原作の貫一郎は「人を斬るのが本当は辛くて仕方なかった」という独白もしているんですが、斎藤は「吉村の人柄からして、強請りは人斬りより辛かっただろう」とも語っています。
それくらい性根が優しくて、悪いことなどできない真っすぐな人間が「家族を養う」という義を貫くために強請りまでしていた…という何とも切なく苦しい場面なんです。

それを何で!!泣くほど辛い思いをしていた貫一郎を!!「ニヤリ」とさせたんだ、ダーイシー!!??

もう本っ当にダーイシの感性が私には分からない…何を伝えたくてニヤリとさせたの?何でちょっと笑えるシーンみたいにしちゃったの??
沖田・永倉・原田のワチャワチャと土方さんの切れ者ぶりの芝居をさせたかったにしてもさ、貫一郎をニヤニヤさせる必要はないじゃない?
ってことでこんなんどうよ?な妄想代替案(笑)ですが、

貫一郎が言いにくそうにお金を要求する
→斎藤は驚くが、貫一郎の辛そうな様子を見て「…持っていけ、20両ある」と渡す
→「おもさげながんす」と金を受け取って走り去る貫一郎、そこへ沖田たちがやってきて「吉村さんにはお見通しだったんですね。中々したたかな人だなぁ」と軽口を言う
→斎藤が「そんな器用な奴じゃねぇだろうよ」と貫一郎をかばうようなことを言い、ちょっと驚く沖田。バツが悪くなって「…しかし20両は多すぎた、お前ら5両ずつ出せ!」と金を要求する斎藤。

て感じ…いかがでしょうか。
そこからワチャワチャ芝居が始まるなら、貫一郎が根っからの守銭奴ではないことを伝えつつ、斎藤・沖田・土方のやり取りを楽しめる場面にもできたんじゃないかな~なんて。
しかし浅田次郎先生はこの場面をどういう気持ちでご覧になってたのかなと思うと…うっ、頭が痛い。


③大野次郎右衛門の最期について

宝塚版では秋田征伐の最中に、鉄砲で撃たれて死んでしまったジロエくん。
1回目の観劇の時は「貫一に続いてジロエまで死んでしまうなんて;;;;」とただ悲しくて泣きましたが、原作を読んでから臨んだ2回目の観劇時には「なんでここで殺しちゃうの!?;;;;」と泣きながら怒りが爆発しました(笑)
というのも、原作のジロエは秋田征伐戦後も生き残って色々と大事な仕事をしているからです。

そもそも、何でジロエが貫一郎に切腹を申し付けなくてはならなかったのか…舞台だけご覧になった方ってちゃんと分かりましたかね??
一応「南部二十万石と壬生狼一匹を秤には掛けられねぇ」って台詞がありましたが、あの時点で南部藩は幕府側につくか新政府側につくかをまだ決めていませんでした。天下がどう転ぶか分からないので、中立の立場をとって情勢を見極めようとしていたんですね。おまけに南部藩蔵屋敷は大阪にあるので、本国盛岡からは遠く離れた陸の孤島状態。そこで下手なことをして南部藩が攻められるようなことがあっては一大事ってわけです。
その難しいタイミングで、バリバリ幕府側である新選組隊士が南部藩に助けを求めてきた。これを匿ったことが薩長に知れたら、南部藩は幕府についたと見なされて攻められる可能性があるわけです(ちなみに南部藩蔵屋敷のすぐ隣は彦根藩蔵屋敷で、彦根藩は薩長側。貫一郎の騒ぎが大きくなったら非常~にヤバい状況です)
だからこそジロエは、無二の親友である貫一に切腹を命じることしかできなかった。どんなに貫一を助けたくても、彼の立場がそれを許してくれなかったんですね。は~切ない…。

そして貫一郎切腹の後、ジロエは南部藩に呼び戻されます。
幕府につくか薩長につくかで南部藩内でも意見が割れたため、大阪勤めで情勢に詳しいジロエに意見を求めようとなったんです。そして多くの人は「御家大事」のジロエのこと、南部を守るために薩長につくだろうと思っていました。ところが南部藩に戻ったジロエが「薩長は断じて官軍にあらず」と進言したため、薩長に与した秋田を攻めることになった…というのが話の流れです。
この時、何故ジロエが南部を危険に晒してでも薩長と敵対する道を選んだのか。ジロエ本人の口からは明言されていませんが(※)貫一郎の死と無関係ではないでしょう。ジロエは「吉村貫一郎こそ真の南部武士である」と心から貫一郎を敬愛し、彼がいないと生きて行けないというくらい大切に思っていた。そんな彼を死に追いやった自分が許せないのと同じくらい、薩長が憎かったでしょうからね…。
(※9/11追記:原作を読み返したら大野次郎右衛門の手紙の中で秋田攻めについての記述もありました、確認不足ですみません!この解釈がまるっきり的外れというわけではないと思うので、記述はそのままにしておきます)

秋田征伐では先陣を切って戦ったジロエですが、無茶な戦い方をした割には傷一つ負わずに生き残った、と原作にはあります。
生き残ったとはいえ、賊軍の将として明治2年には処刑されてしまうのですが…その処刑されるまでの間、ジロエは藩の仕事以外に大事な仕事を二つしています。
一つは、自分の死後、息子千秋の後ろ盾となってくれる人を探すこと。
そしてもう一つは、遺された貫一郎の家族の面倒をみること。

戊辰戦争後、南部藩は官軍に歯向かった罪で多額の賠償金を支払わなくてはならなくなります。それにより元々苦しかった財政はより悲惨なことになり、薩長と戦う道を選んだジロエの評判は地の底まで落ちました。千秋を始め、残された家族はとても南部藩にはいられなくなるだろう。そう考えたジロエは、千秋に「この手紙の人物を尋ねよ」といくつかの手紙を渡します。その手紙を頼りに東京に向かった千秋は、ジロエと親交のあった元南部藩士の医者と知り合い、医学の道を進んでいくことになります。

もう一つ、貫一郎の家族について。長男嘉一郎は秋田征伐に参戦、長女みつは千秋が面倒を看る、妻しづは病で臥せっている…と知ったジロエが一番心配したのは、貫一郎がついぞ会えなかった次男坊のことでした。
①の斎藤一の項でも書いた通り、新政府軍は新選組の生き残りを探していました。それは吉村貫一郎とその家族もその対象だったのです。「真の南部武士」だった貫一の血を絶やしてはならない。そう考えたジロエは、まだ幼い次男坊を佐助に頼んで越後に逃がすのです。それは大野次郎右衛門の最後の仕事でもありました。
ちなみにこの次男坊、原作小説ではきちんと名前が出てきます。その名前が明かされるところはもう…胸がぐっと締め付けられて、切なさと愛おしさで世界が満たされるような感覚になる名場面ですので、未読の方も是非原作を読んで頂ければ幸いです。

つまりですね、ジロエが秋田征伐の時に死んでしまったら千秋は医者になれなかったろうし、次男坊も札幌の農学校には行けなかっただろうってことです。
どう考えてもあの場面でジロエを殺す必要はなくて、戦に向かう嘉一郎を見送った後、銀橋で歌を歌ってそのまま退場…でも良かったはず。
そして鹿鳴館の時代に戻って、千秋に「父は秋田征伐に参加した後、賊軍の首魁として処刑されました。でも、父が遺した手紙の紹介で南部藩出身の医師と出会い、私は医学の道を志したのです」と語らせれば話は綺麗に繋がるんですよ。

何で!!あそこで!!ジロエを殺したの!!!???

ほんっと分からん…淀川決戦で貫一郎に無駄死にルートを歩ませた上に、ジロエまで勝手に殺しちゃうの本当に分からん…。
そのくせ「吉村さんの想いは、いまも受け継がれているのね…」なんて台詞を唐突に突っ込んでくるデリカシーのなさ。貫一郎の想いを受け継がせるためには!!ジロエが必要でしょーが!!??
原作を読んでジロエくん強火担(笑)になった私が一番ムカムカしたのはここだったので、長々と書いてしまいました…おもさげながんす。


④鹿鳴館チームのことも改めて物申したい

やっぱさ~鹿鳴館チームの、特に女性陣の描写がひどくない??
ビショップ夫人の「漫画的な外国人キャラ」扱い(ビショップ夫人は実在するイギリス人旅行作家で、あの時代に世界中を旅して旅行記を残した凄い女性です)
みつがいる前で「貫一郎の見合いの話をして」とせがむ松本良順の妻・登喜(父に会えず寂しい思いをしていた娘に聞かせる話か?と思うし、別に楽しい話というわけでもない)
仲間が止めるのも聞かず一人で敵に突っ込んだのに、南部藩に命乞いをした父を「英雄だったのか?」とか言い出しちゃうみつ(その後の「英雄ではない、新選組の良心だった」という斎藤の台詞を言わせるためだけの台詞にしか見えない)
舞台の進行役として鹿鳴館チームを使うのはいいにしても、何ていうの…話を進めるのを優先しすぎてて、キャラクターの人物造形が雑すぎると思うんですよね。しかもその進めたい話っていうのもダーイシの主観に基づいているもので、原作の流れはさらっと無視しちゃってたりするという…アチャー…。

一番ドン引きしたのは、最後の最後のビショップ夫人と鍋島夫人の会話。
ビショップ夫人が「政府高官の奥方は、元芸者が大勢いる」と話したら、芸者や女学生が「玉の輿!」と俄然張り切ったというところ。
これホントいらなくない!?何でこんな品のない台詞を勝手にぶっこんだの!?
雪組生の大熱演で脚本のアラを一瞬忘れちゃうくらい感動的な舞台だったのに、この余計な台詞で一気に熱が冷めちゃったんですよね…。

たしかに、明治時代に女性が良い暮らしをしようと思ったらお金持ちと結婚するくらいしかなかったとは思いますよ。
でもさ、それを別にこのお芝居の流れで言う必要ってないよね!?
観客は貫一郎の壮絶な最期にもう涙涙で、妻子のために必死に生きた男の生きざまに胸を打たれてるわけですよ。その余韻に浸ってる最中、いきなり「まぁ女は結婚して成り上がるくらいしかないけどね!」て言われたらどう思います?マジドン引きだし「空気読め!!」って話ですわ。
しかもこれをビショップ夫人に言わせるのがまたさぁ…あの時代に世界中を旅するくらい気骨のある女性が、玉の輿を勧めると本気で思ってんの!?

まぁダーイシは元々女性蔑視的な台詞を書いたり、「すみれコードって知ってる?」と問い詰めたくなるくらい品のない台詞を書いたりで物議を醸しがちな演出家みたいですが…。
宝塚を支えているファンの多くは女性であること。
女性蔑視やセクハラ的な発言が大問題に発展する時代であること。
そういう意識を持って、作品と向き合って欲しいなぁと思ったのでした。
つい悪いところばっかり書いちゃったけど、ジロエとひさの描き方とか、良いと思ったころも勿論ありました。
でもねぇ…やっぱり総合的には、ひっどい脚本だったと思うよ。

他にも突っ込みたいところはあったんですが、ここまで書いたら疲れたのでこの辺で~!
長文を読んで下さった方、どうもありがとうございました!

2019年9月5日

雪組「壬生義士伝」で、貫一郎は何故一人で特攻したのかって話

※ヅカ版「壬生義士伝」の貫一郎特攻シーンにモヤモヤが止まらなかったので、考えをまとめたくて書きました。
あくまで個人の解釈なので、同じようにモヤモヤした方は原作を読まれることをお勧めします…。

最初の感想でも書きましたが、鳥羽伏見の戦いでの貫一郎の特攻シーンは何回見てもひっかかりました。
で、原作を読んで改めて思ったんだけどあの描き方ではやっぱりダメだと思う。
この場面、観ていて「何で?」と思った方は多いと思うんですよね…劇場で観た時もライビュで観た時も、幕間に「あの場面、何で貫一郎は一人で突っ込んでったの?」と話す声があちこちから聞こえてきたので(その声に「だよねぇ~」と一人で頷いてた私…w)

何でひっかかるかと言えば、土方さんが「一旦大阪城に退いて態勢を立て直す」と生き延びる提案をしたのに、貫一郎は「勝つための戦ではござらん」と拒んで敵に特攻してしまったから。
「死にたくないから人を斬っている」「人を斬るのは家族を養うため」という、それまで描かれていた貫一郎の「家族への義」がここでいきなりひっくり返されちゃうわけです。どう考えても一人で突っ込んだら死ぬ可能性が高いんだから、土方さんの「ここで無理に戦っても無駄死にになるから一旦退こう」という意見の方が、貫一郎の義には沿うはずなんですよね。
じゃあ何でそんなことになっちゃったのか。
それは原作の流れを中途半端に変えてしまったからだと思います。

この淀川決戦の場面、原作の土方さんは「一旦大阪城まで退こう」なんて言いません。
逆に「一歩も退くな。退く者は斬る!」と錦の御旗にひるんだ隊士たちを鼓舞しています。ただ、やはり天皇の象徴である錦の御旗の威力は絶大で、多くの隊士が戦意喪失してしまった(新選組も尊皇派だからね)
そんな中、堂々と名乗りを上げて新政府軍に立ち向かっていったのが吉村寛一郎。
自分も尊皇の民であるから天皇様に弓引くつもりはない。ただ新選組として、一人の侍として、薩摩とは戦わねばならない。
彼の体を動かしていたのは、そんな武士としての矜持だったのではないかと思います。

そして命からがら淀川決戦を生き延びた貫一郎は、同じく生き残った新選組の仲間から「将軍様も会津公も、船で江戸へ落ちられたらしい。新選組は大阪城に籠って戦うぞ」と告げられます。
ここで貫一郎は仲間たちと大阪城に行くのを拒むんですね。なぜなら「幕府は散々に敗けて、将軍様も会津公も逃げ出したのに、一体何のために死なねばならないのか」と思ったから。貫一郎にしてみたら、幕府にも会津藩にも恩義はあれども自分の命を捨てるほどの忠義心はない。折角生き延びたのに、わざわざ無駄死にしたくないと新選組を離脱し、何とか故郷の盛岡へ帰れないかと考えるわけです。

つまり淀川決戦で貫一郎が特攻したのは、まだ侍として戦う理由があったから。
そして大阪城行きを拒んだのは、もう戦う理由もないのに無駄死にしたくないと思ったから。
そう考えると、貫一郎の言動に矛盾はないと思うんですよね。

原作では「新選組と大阪城に行く=死に戦に赴く」ことであるのに、舞台では「新選組と大阪城に行く=生きるために一旦退く」という真逆の意味ににすり替えられてしまった。その上、大阪城に行くかどうかの選択も決戦後ではなく決戦前に変更されている。
それなのに、貫一郎が淀川決戦に挑む時の口上は原作のままだし、「これは勝つための戦ではなく、人として忠義を尽くすための戦い」とか言い出す始末。これじゃ話がちぐはぐになるはずよね…突然キャラが変わっちゃってるんだもん。

そもそも土方さんに「一旦大阪城まで退こう」なんて、原作と全く違うこと言わせるからおかしくなっちゃってるんだよなぁ…。
たしかにね、皆が逃げようとしている時に一人敵に立ち向かっていくヒーローの姿がカッコ良く見えることはありますよ。
でもそんなとってつけたようなカッコ良さのために、キャラクターの核になる部分を変えちゃダメじゃない!?(いや、そういう理由で変えたかどうかは分からないけど!!)
吉村貫一郎は徹頭徹尾、家族のために生きた男なんですよ。貫一郎の根底には「武士として最も大事にすべきことは、弱い立場の百姓や民草を守り、ひいては己の妻子を守ることである」という信念があった。そして自分が真に忠義立てするのは南部藩でも幕府でも会津藩でもなく、家族であると。それこそが自分の義であると考えていたはずなんです。
だからこそ彼は、南部藩蔵屋敷で帰参を願い出たんですよね。生き恥をさらしてでも、どうにか生き延びて家族の元へ帰りたいと。

それが舞台では「勝つための戦ではない」と特攻したのに、生き残ったら南部藩に命乞いをするという何だかおかしな展開に…いやいや、死を覚悟して戦に臨んだ風だったのに、あっさり命乞いしちゃったら彼の「忠義」はどうなっちゃうんだよ!?「忠義に死ぬことこそ義」みたいな雰囲気だったじゃん!?
淀川決戦を変にかっこつけた特攻シーンにしてしまったせいで、物語の核である貫一郎の「義」がブレてしまった。
これが宝塚版「壬生義士伝」(というかダーイシ)の一番やらかしちゃったポイントかもしれない…それに比べたら鹿鳴館チームのあれこれとかささいな問題に思えてきたわ(笑)

しかしこうして書いてて、こんなグダグダの脚本をあんなに良いお芝居に昇華した雪組は本当に凄いな~とも改めて思ったのでした。

2019年7月21日

東宝版エリザベートを観てきたので、宝塚版と比べてみた

感想は書かなくてもいいかな~と思ってましたが、たまにしか観られない作品ですし観劇記念兼備忘録として書いておこうかと。
ってことで、2019年7月15日に帝国劇場にて「エリザベート」を観劇してきましたよ!
私が観た配役は下記の通り。

エリザベート:愛希れいか
トート:古川雄大
ルキーニ:山崎育三郎
フランツ:田代万里生
ゾフィー:涼風真世
ルドルフ:三浦涼介
少年ルドルフ:陣慶昭

ちなみに宝塚版エリザは18年月組版をライビュで、16年宙組と14年花組は劇場で観劇。それ以前の公演も映像でちょこちょこ見ています。
東宝版エリザは15年に花總・城田版を観劇。
(あと全然覚えてませんが、10年に山口祐一郎トートを見ているのでそれがエリザ初観劇です。が、シシィが朝海さんだったか瀬奈さんだったかも覚えてないくらい記憶に残っていない…)

てことで東宝版を観るのは4年ぶり。しかもその間に宝塚版の映像を何回も観ているので、久しぶりの東宝版は色々衝撃でした。
何ていうか…全体的に生々しいよね、東宝版は!びっくり!!
宝塚版のふんわりオブラート表現と様式美に慣れていたので、あらゆる場面で「え、マジで!?」と不意打ちをくらうっていう。
あと音楽もね、同じ曲でも宝塚版とはメロディーが変わっていたり追加されていたりするので聞いてて「知ってるメロディーと違う…」となることもしばしば。
知っているようで全然知らないエリザベートだったなぁと観終えた時に感じました。

以下、覚えている範囲で宝塚版と東宝版の違いを箇条書きにて。

☆第一幕
・冒頭(とラストシーンでも)ルキーニが首に縄をかけた状態で登場、実際のルキーニが刑務所内で首吊り自殺したエピソードが強調されているのかな?逆にヅカルキーニおなじみの、手錠を引きちぎって「エリザベート!」と叫ぶ始まり方は無し。
・「パパみたいに」の場面でマックスパパがシシィの目を盗んで家庭教師と浮気してる!シシィが「パパみたいになりたい」と歌ってるのを聞いても「いや、こうはならない方がいいって…」と心の中で突っ込んでしまった(笑)
・トート閣下がシシィを見初める場面、二人の立ち位置が結構離れているので一目ぼれしたって印象が薄い…宝塚版だと閣下があからさまに「ハッ!この娘めっちゃ可愛い!!好き!!」て表情をするし、動きやちょっとした仕草で「恋に落ちた黄泉の帝王」を印象付けられるんだな。東宝版でも「愛と死の輪舞」は歌うんだけど、恋愛的にシシィに惹かれたって印象は薄かったです。
・バートイシュルのお見合いシーンで、雲隠れしたマックスパパの代理でシシィが参加したことになってる。パパ堂々とさぼりかよ!やっぱこのパパみたいにはならん方がいいよ、シシィ!!
・お見合い中に落ちて転がるのは果物ではなくヘレネのでっかい髪飾りで、拾ったシシィが付け直そうとしてあげる(可愛い)
・フランツがシシィを選んだことで、ヘレネが「3年間の花嫁修業がパァ!?」と嘆く台詞がある。そうだよな~ヘレネには気の毒すぎるもんなこれ…。
・フランツがシシィにプロポーズして歌う場面で、シシィが「自由に生きたい」アピールをするのに対し、フランツが「皇帝にも皇后にも自由はないから!ホント自由とかないから!!そこはホント覚悟して!!」と滅茶苦茶念押ししてたw東宝版はこの「自由を求めるシシィ」がより強調されてますね。
・フランツとシシィの結婚式の場面で閣下が目立たない(笑)ってかどこにいたんだ??
・「最後のダンス」後におびえるシシィを伴ってフランツが袖に消えると、ルキーニが「エリザベートは皇后の務めを果たしたのか?」とあからさまに性行為を臭わすように言うのでドキリとするんだけど。新婚翌朝にゾフィーがやって来るところで、ベッドの布団をめくってシーツが真っ白なことを見せつけるのにさらにヒェ~!てなりました。宝塚では絶対にない演出だな(笑)
・フランツがゾフィーの肩を持つので絶望するシシィ、宝塚版ではこの時にナイフで自殺しようとして思いとどまるけど、東宝版ではそもそも自殺しようとしない。これは大きな違いですよね~!「私だけに」を歌い終えたシシィは失神しないし、閣下も登場しないし、当然シシィのナイフを拾って持ち帰りもしない。
これ、宝塚版はシシィが心のどこかで「死=トート」に惹かれていることを表しているのかな?フランツが自分より母を選んだことで、自分も死を選ぼうかと思うけど「私は誰のものでもないわ」と気付いて自我に目覚める、みたいな。でも死を選択肢に入れたことで、閣下も「シシィは心のどこかで俺(死)を求めている…!もうちょっと待ってみよう!!」と希望を持つ、みたいな(笑)
ここも、宝塚版はトートとシシィの恋愛要素を盛り上げるための演出だったんでしょうね。
・フランツとシシィがハンガリーを訪問する場面、エルマーが銃で二人を暗殺しようとしててびっくりした!宝塚版だとエルマー・シュテファン・ジュラってサンコイチで三色旗を振ってたな…くらいでそこまで大きな違いがないイメージなんですけど、東宝版はエルマーがすごく目立つし重要な役どころなんですね。まぁ暗殺は当然失敗するんだけど、騒ぎになったところでシシィが三色旗ドレスを披露→ハンガリーの民衆が湧き立つという流れは変わらず。その後、閣下はエルマーたちをウィーンへ行くよう促すというよりは逃がすのを手伝ってあげる感じだったかな。あ、あとシシィの長女ゾフィーがハンガリー訪問中に死んでしまい、「娘を奪ったわね!」とシシィがトートを責める描写が入ってました。ウーン、やっぱり恋愛関係にはなりそうにない二人だ…。
・ゾフィーが子ルドを厳しくしつけている場面が足されており、ルドルフの可哀想度が上がっている。
・安らぎを求めてシシィの部屋を訪れたフランツに、シシィが「お母さまか私か、どちらか選んで!」と言って追い返した後。宝塚版だとクローゼットから閣下が現れるけど、東宝版はシシィの座っている椅子の後ろからニョッと出てきてびっくりした(笑)で、まぁシシィに迫って断られた後の閣下なんですけど、宝塚版はお行儀よくわざわざ扉から出て、なんとも切なげな表情をしますよね。それも東宝版はなし。シシィに断られた閣下は部屋のろうそくを吹き消して、そのまま舞台が暗転、次の場面に行くという流れ。ウーン、やっぱり恋愛関係にはなりそうにな(ry
・ミルクの場面、民衆を扇動するのはトート閣下ではなくルキーニ。この辺りから「ルキーニってシシィを心底軽蔑してるんだな」ていうのがだいぶ表に出てきたと思う。

☆第二幕
・「キッチュ」でルキーニが写真を撮らない!鳩も出ない!!(笑)カメラがないことで、この後のマダム・ヴァルフの場面も変わってきます。
「キッチュ」の歌詞もかなり違っていて、フランツがハンガリー国王になること、皇帝夫婦の仲の良さなどを皮肉たっぷりにあげつらったかと思えば「本当のエリザベートはかなりのエゴイストだし、子供の養育権をゾフィーから奪い返したのに育児放棄しているし、スイスの銀行に隠し口座を作ってる」と辛らつに批判する内容。「おとぎ話じゃないぜ」という歌詞もあって、やはりドキッとしますな東宝版。
・子ルドの「ママ、どこなの?」の後、宝塚版はゾフィーと重臣たちの企み→マダム・ヴォルフのコレクションって流れになるけど、東宝版は先に精神病院訪問の場面になる。これは宝塚版の方が流れが分かりやすいのでは?という印象。
・「マダム・ヴォルフのコレクション」でマデレーネは黒天使ではなく、普通の人間の娼婦。つまり閣下の差し金ではないということで、じゃあ何故彼女が選ばれたかといえば職業病(梅毒)を患ってるからっていう…おい待て正気か!?ってツッコミ入れたくなっちゃうよね!そりゃシシィが性病に感染すればフランツの浮気が分かるだろうけど、当時まだ治療法は確立されてないはずだから下手したらフランツも死ぬリスクがあるのでは??あとマデレーネの衣装が貞操帯を模してたのもどぎつかったなぁ…。
・運動中に倒れるシシィの原因が、過激なダイエットのせいではなく性病に感染したからという理由になってます。で、そこでフランツの裏切りを知るという。閣下がドクトルゼーブルガーとして現れるのは同じだけど、「死ねばいい!」の台詞がないのでなんか物足りない(笑)
・シシィが旅に出てしまい、フランツはとうとうゾフィーとの決別を宣言。ゾフィーは息子が自分から離れることを嘆き、私情を捨て、厳しくあらねばこの国は滅びると憂いながら死んでいくという…ゾフィーが亡くなる時にソロ曲があるのはいいなぁ。
・旅先でコルフ島を訪れたシシィが、憧れている詩人ハイネに倣って詩を書こうとするとマックスパパの思い出が蘇ってくる…という場面がある。で、「パパみたいになれなかった」と寂しそうに歌うんだけど、東宝版のパパは自由人というよりだらしない印象だし、シシィも超エゴイストなので…ウン。憧れる対象を間違えたんじゃないかなって気持ち…。
・青年ルドルフがフランツと対立する辺りでは、かなり政治的な皮肉が込められている印象。ルキーニがヒトラー風の衣装になり、巨大なハーケンクロイツの旗がバッと舞台に広げられたのにはギョッとした。この時代のドイツ頼みの外交や反ユダヤ主義の台頭が、後のアドルフ・ヒトラーを生んだというハプスブルク家への批判を表しているのかな…ぼんやり生きてる日本人の私でもギョッとしたのだから、ウィーンでこの演出があったら物凄いインパクトがあることでしょうね。良いか悪いかは別として。
・ルドルフの妄想戴冠式で王冠を授かる場面にシシィが出てこなかったような…。
・ルドルフが絶望して自殺するマイヤーリンクの場面、東宝版は先に閣下にキスされてから銃を撃つんですね!?この違いはめっちゃ興奮した!!(笑)なんだろう…先にキスをすることで、「死(トート)に導かれるまま命を失ったルドルフ」って印象が強まった感じ。宝塚版は先に自決してからのキスだから、死神が魂を回収するためのキスってイメージもあるんですよ。東宝版の方がより退廃的で、ゾクッとする演出でした。
・2回目の「キッチュ」もルキーニのシシィ批判は痛烈。実際のエリザベートの写真?絵画?をスクリーンに映し出しながら歌うんだけど、息子を失って悲しみに暮れる皇帝夫婦の姿を「騙されるな、不幸を切り売りするしたたかな奴だ」と批判するっていう。シシィのグッズを持って登場するのは宝塚版と同じなんだけどね、宝塚版は「人は知らない悲しみを抑えた微笑みを」って歌詞でシシィに同情してるようにも感じられたからさ!東宝版ルキーニは明確な悪意をシシィに抱いてるのが強く伝わってちょっと怖かったし、それによって作品全体の印象も変わりましたね。
・「夜のボート」でシシィと別れた後にフランツが「悪夢(フランツの親族である王侯貴族が次々不幸な死に方をするオペラで、それを指揮しているのがトート閣下という内容)」を見る場面があり、ルキーニはそこでトートから凶器のヤスリを受け取る。宝塚版の「最終弁論」に当たる場面だけど内容が全然違うし、なんか…東宝版のフランツめっちゃ気の毒だなって思いました(笑)
・ラストシーンでルキーニに刺されたシシィは自ら黒いドレスを脱ぎ、白いシンプルなドレス姿に。そこへ閣下が歩み寄ってキスをして二人は黄泉の世界へ…て流れかとは思うんだけど。東宝版では棺のような装飾の壁にシシィが寄りかかって眠り、それを閣下が側で見守っているだけなので、やっぱり死んで2人が結ばれるっていう印象は薄いな~。あとシシィのすぐ側で首吊りのロープをひっかけたルキーニがやっぱり死んで倒れてます。最後までディープインパクトだぜルキーニ…。


と、セットリストを横目に思い出せる範囲で違いを書き出してみたら結構あった!
一つ一つは細かい違いだったりするけど、それが積み重なることで作品全体の印象やテーマも大きく違っているんだなと感じました。

宝塚版は主人公がトートという独立したキャラクター。死という概念を擬人化したキャラクターが、シシィを手に入れるために様々な画策を図ったことでハプスブルク家は滅亡という悲劇的結末を迎える。でも、トートは最後の最後でシシィの愛を手に入れて二人は結ばれるので、ハッピーとは言わないまでもメリーバッドエンドって感じ。そこへ至るまでのトート閣下の心の機微(フランツへの嫉妬心や、シシィに拒否された時の落胆など)も随所で描かれるので、恋愛物語として分かりやすい構成になっていると思います。

東宝版の主人公はシシィ…なんだけど、彼女も主要登場人物に過ぎず、本当の主人公はルキーニなのでは?と思いました。というのも、狂言回しであるルキーニ自体の主義主張がかなり物語に反映されていると感じたから。宝塚版のルキーニはあくまでストーリーテラーにすぎず、トート閣下の手駒の一人という印象もありました。それに対し、東宝版は全てがルキーニの妄想であり、暗殺者ルキーニの目から見たエリザベートの一生を劇中劇として見せられているのでは?なんて考えちゃいましたね。
Wikiを見ただけだけど、実在のルキーニはシシィ暗殺の理由として「エリザベートを狙ったのはたまたまで、王侯であれば誰でも良かった」と言ってるそうだし。自己顕示欲が激しく、特権階級である王侯を憎んでいたルキーニが、自分の行い(暗殺)を正当化するために「エリザベートは殺されても仕方のない人間だ」と地獄の裁判官に語る物語に見えた。死(トート)に愛されたというエピソードもある種の呪い(次々と不幸が襲う)として描かれている印象だったし、それに加えて彼女の自分本位な行動によってハプスブルク家は滅亡したっていうね。それが東宝版の「エリザベート」なのかもしれない。
カフェブレイクだったかな…月城かなと君がルキーニを演じる時に、「『エリザベート』というお話自体がルキーニの妄想かもしれないことを念頭に置いて演じて」というようなことを小池先生に言われたとお話しされてたんですけど。今まで宝塚版を見ていてそう感じたことはなかったので「そういう見方もあるのか」と印象に残ったんですが、東宝版はまさにそんな感じでしたね。

というわけでルキーニが何故エリザベートを殺したかという点については滅茶苦茶分かりやすい東宝版でした(笑)
あと全体的に表現がリアルで下品なのも、暗殺者ルキーニ視点だからだと考えると納得。
ついでに東宝版はフランツよりルキーニの方が役としての格も上だし。それも納得だな~。

好みで言えば宝塚版の方が好きかなと思いましたが、東宝版を観て作品の理解度は上がったように思います。
やっぱり「エリザベート」は名作だし、この先も機会があれば(というかチケットにご縁があれば)見続けたい作品だな~大好き!!

2019年2月6日

エリックの手紙とキャリエールの話

※以前ぷらいべったーに掲載した文章の再掲です

ふと思ったんですけど、エリックって何で「ファントム(怪人)」として手紙を書くようになったんですかね?

原作小説は未読なので分かりませんが、ARW版「オペラ座の怪人」だと怪人は自分の思い通りにオペラ座を動かすため、脅迫めいた手紙を支配人に送り付けてました。「5番ボックスは私の席だから空けておけ」とか「私に給料を払え」とか。
で、その要求に従わないと何かしらの不幸やトラブルが起こるので、オペラ座支配人は要求に従ってた様子(改めて文章にすると完全に恐喝だねコリャ)
「ファントム」でも手紙が届くシーンは登場するけど、「オペラ座~」とは支配人と怪人の関係が全く違うのでそもそも手紙を送る意味ってある?と疑問に思ったわけです。
だって何か要求があればキャリエールに直接頼めばいい話じゃないですか。
実際、「ファントム」では給料を要求する描写は出てこないですよね。ということは、エリックと従者たちの衣食住をまかなう資金(給料)はキャリエールが直接エリックに渡している=手紙で要求する必要はない、と考えられる。

あと怪人からの要求といえば、オペラ座で上演する演目や配役について口出しするってのがあります。
「ファントム」でも支配人が変わってからは、カルロッタへのクレームが新支配人ショレ宛に手紙で届くようになった描写がありますね。
これはまぁ、キャリエールの時みたいに直接話せないから手紙を使ったんだなって分かるんですけど…問題は、キャリエール支配人時代に何でわざわざ手紙を書き、天井から落として届けるようなことをしてたのかってことです。
ここでポイントになるのは、手紙を届ける際にあえて自分の存在をアピールする方法をとっていることだと思います。

「宝塚GRAPH(2019年2月号)」に掲載されていた望海さん・彩風さん対談で、「エリックとキャリエールはオペラ座の上演演目やキャスティングも話し合っていたのでは」というようなお話がありました。
これはあくまでお二人の解釈の話であるとは思うのですが、仮にそうだったとするとエリックが手紙を送り始めたきっかけはキャリエールへの反抗心だったのかも?と思いまして。
たとえばですが、上演演目の話し合いでエリックとキャリエールの意見が対立したとする。最終的な決定権はもちろんキャリエールにあるので、エリックの意見は通らない。それにどうしても納得できないエリックが、「ファントム」として上演演目についての要望を手紙を書き、団員たちが集まっている場に届ける…とか。
元々「オペラ座には幽霊がいる」という噂があったところに、幽霊を名乗る人物から手紙が届いたら不気味だし、予定してた演目を不吉に思う団員もいるかもしれない。
一方のキャリエールも、まさか自分の息子のいたずらですと言うわけにもいかないし。怯える団員たちを落ち着かせるためにも、まったく困った子だなぁと思いつつもエリックの意見に従った…なんてことがあったのでは~!?

つまりエリックは、自分の意見や要求を通すのに団員たちを味方につけようと手紙を送っていたのでは?という妄想です(笑)
いやなんか、そうだったら可愛いなって…だってこれ、お父さんと喧嘩した息子が母親を味方につけようとしてるような構図ですよ。
本気で怖がってた団員たちにしてみたら人騒がせなことこの上ないけれども、根っこがただの親子喧嘩だったのではと思うと微笑ましいというか、はちゃめちゃ萌える(笑)

これでもしキャリエールが悪人だったら、ファントムをスケープゴートに仕立てて自分の思惑通りにオペラ座を動かしていた…なんて可能性も考えられるけど、そんな策略ができるほど器用な人でもないし。そもそもキャリエールからしてみたら、エリックの存在自体あまり人に知られたくないわけですよね。エリックを守るためにも、オペラ座の地下深くに住まわせてたんだろうし。
だとすれば、やはり手紙はエリックが自主的に書いて届け始めたものではないかと思うわけです。
キャリエールの悩みの種は増えたかもしれないけど、エリックとしては自分の意思を示す方法が増えて、多少生きやすくなったのではないかな…そうだったらいいな。あえて手紙でワガママを言ってくる息子に困りつつも、しょうがないなぁと要求を飲んでしまうパパも親馬鹿で可愛くないですか…はぁ。

あと細かすぎる萌えとしては、エリックに文字や文章の書き方を教えたのはキャリエールだったんだろうなぁということ。
自分が教えたことがこんな風に使われるとは…と頭を抱えるパパにも萌えます。
はー、「ファントム」の父子はホンッッット良いものですね!!夢広がる!!

2019年1月24日

エリックとクリスティーヌ(と少しキャリエール)の雑感

※以前ぷらいべったーに掲載した文章の再掲です

「ファントム」におけるエリックの顔の「痣」は「自分がコンプレックスを感じている部分」の象徴なのかな~なんてことをぼんやり考えていたんですけども。

カルロッタ様みたいに「自分大好き!!」な人はまたちょっと別かもしれないけど、人間って大なり小なりコンプレックスを抱えながら生きていて、でもそういう部分って人に見せないよう、分からないように振舞っている人が殆どなのではないかと思います。自分が劣っている(と思っている)ことを他人に面と向かって指摘されたら自尊心がめっためたに傷つくもんね。
エリックの場合、それが顔の痣という誰にでもすぐ分かってしまう形で生まれてきてしまったのが悲劇の始まりなんだろうなぁ。
これが物の美醜にこだわりがない人ならまだ良かったのかもしれないけど、エリックは父親に似たのか大の美フェチだし…美を心から愛しているのに、自分は生まれつき美に愛されなかったと突きつけられ続けられるのはさぞしんどいだろうと思う(小さい頃はお母さんが側にいたし、自分の顔のことも気づいていなかったっぽいから、「自分の顔を見て、海のお化けだと思った」という思い出がまた辛い)

で、そんな自分のコンプレックスに気付いて深く傷ついたエリックに、見られたくない部分は隠してもいいんだと教えて仮面を与えたのがキャリエール。
この仮面も最初は質素というか実用的でしかなかったものが、段々美しく芸術的なものになっていったのだろうな~と思ったり。エリックが嫌う自分の醜い部分を、彼が愛する美で覆ってあげようというのもキャリエールの親心だったんじゃないかと思います。スタイルに自信のない人がファッションで上手くカバーしようとするのと同じ心理ではないかと。
エリックが素顔を見られるのを極端に恐れるのも、自分自身がその醜い部分を受け入れられていないからだと思うのです。「どんな姿かたちでも私は私」という意識があれば、あそこまで恐れることもないかなぁ…なんて(見た人が恐がるからと仮面はつけるかもしれないけど、もうちょっと冷静でいられるかなと)
自分でも自分の欠点を愛せていないのに、一体誰がありのままの自分を愛してくれるのか。エリックの嘆きや苦しみって、とても人間らしい悩みですよね。まぁ、時代的に異質な外見をしているだけで人間扱いされない(=見世物にされる)可能性が高いから、現代以上に深刻さは感じますが。

でも一人だけ、ありのままの自分を愛してくれた人がいる。それが天使の歌声を持つお母さん、ベラドーヴァ。
あまり人との接触をしないまま成長したエリックなので、「天使の歌声を持つ女性=自分を愛してくれる(またはその可能性がある)人」という期待と願望をずっと持っていたのかもしれない。そうして「いつかきっと」と淡い期待を持ち続けて大人になり…出会ったのがクリスティーヌだった。
ようやく見つけた「天使の歌声」の持ち主であるクリスティーヌに急速に惹かれていくエリック。彼女に歌のレッスンをして、ドレスもプレゼントして、自分にできることは何だってしてあげようという献身的な愛を示します。ビストロで大成功したクリスティーヌに求愛するシャンドン伯爵にショックは受けるものの、「クリスティーヌを渡すものか!」と邪魔者の彼を遠ざけようとかクリスティーヌを攫って自分のものにしてしまおうとか、そういうことはしないんですよね。ただ彼女の隣に立てないことを寂しく思っているだけで。
その後、カルロッタ毒盛り事件でクリスティーヌを地下へ攫うけれども、それも彼女を危険から守りたかったから。カルロッタを殺害したのも、「この女がいる限りクリスティーヌは安心して舞台に立てない」と考えたから(「オペラ座から去るなら命は助ける」というのも本心だったのではと思ってます)
で、結局カルロッタを殺害して地下に戻り、上着を脱いで(返り血がついていたのかもね…)クリスティーヌに話しかけるエリック。ここでもし「君を傷つけたカルロッタはボクが退治したよ!」と嬉しそうに報告でもしようもんなら「サイコパスじゃねーか!!」となるところですが、エリックはただクリスティーヌを自分のお気に入りの場所に誘うだけ。
たとえ悪人でも、人を殺すことは悪であるということをエリックはきちんと理解していたのではないかと思います。そしてカルロッタを殺したと言えば、クリスティーヌがショックを受けるだろうことも。人を殺した直後に、何事もなかったように「森へピクニックに行こう」と誘う姿って恐ろしさも感じるけど、全てはクリスティーヌのためなんですよね~…。

ことここに至るまで、エリックってクリスティーヌに見返りを求めていないように感じます。
それをただの自己満足と押し付けに過ぎないととらえることもできるけど、ただ母親が自分を愛してくれたように無償の愛を彼女に捧げていたのかな、とも。
それ以外の愛し方を知らないものね、エリックは。
彼が願ったのはただ自分のために歌ってほしいということだけ(「君が望むことなら僕はしてあげる」という言葉はホントにその通りすぎるんだよな)
そしてクリスティーヌが望んだのは「お顔を見せて下さい」ということ。
ここは本当に辛い…彼女が望むものならなんだってあげたいけど、それが仮面で必死に守ってきた自尊心だなんて。
一方のクリスティーヌも興味本位からの発言ではないのがまた…彼女はただありのままのエリックを受け止めたい、愛したいと願っただけだと思うんです(これはキャリエールの助言の影響もあるよね…「彼の本当の姿は仮面の下の素顔を見なければ分からない」みたいなこと言うから~…)

真彩希帆さんが何かで「エリックの素顔を見て逃げ出す場面は、彼の顔が怖かったからではなくて、エリックの母のようには彼を愛せないと思ったから」というようなコメントをされてたと思うのだけど(うろ覚え)この解釈はすごく腑に落ちるなと思いました。
好きな人なら欠点も愛せる!と信じていたけど、それが想像以上に重いことだと知った時に「怖い」と思うことはあるのでは?
だってどう考えても重いでしょ~…20数年?地下で引きこもってきた男のコンプレックスの塊ですよ。田舎で純朴に育ってきて、人の悪意や醜さに脅かされず生きてきたであろう年若いお嬢さんには重すぎだよ。
結果、エリックは自分がひた隠しにしていたコンプレックス(とても傷つきやすくデリケートな部分)をクリスティーヌの前にさらけ出し、その重さに驚いたクリスティーヌが咄嗟に逃げ出したことで物語は悲劇の結末へ…ああ辛い。
「ファントム」を見て「クリスティーヌ許せん!!」と憤る方ってこの手酷い裏切りシーンがあるからだと思うんですけど(まぁ「My True Love」歌った直後にアレじゃあね!なんだこの女!?ってなりますよね!分かる!)
でもクリスティーヌがしたことって、人間誰しもやらかしてしまう可能性がある失敗だとも思うわけで。悪気はなくても、失礼な態度で他人を怒らせたり傷つけたりしてしまった経験って誰しもあるのではないかな…。少なくとも自分は、そこまでクリスティーヌを責められないなぁと思ってしまうわけです。人の振り見て我が振り直せ、みたいな。
彼女は手ひどくエリックを傷つけてしまったけど、冷静さを取り戻した時に「彼に謝らなくては」と反省できる人でもあります。ここで己の保身のために言い訳したりごまかしたりしない素直さはクリスティーヌの美点だと思うし、エリックは素敵な女性を好きになったねと思うんです。
そう、クリスティーヌは天使でもなんでもなく、ごく普通の人間なのだから間違えることだってあるんですよね。そして己の非を認めて反省し、謝罪しようと行動できる人間でもある。

エリックの「コンプレックスをさらけ出すのは怖い、でも素の自分を受け止めてくれると信じたい」思いと、クリスティーヌの「愛の力があれば彼の全てを受け止められるはずだし、自分の愛を信じている」という思い。二人の思いが純粋だからこそ、上手くいかなかったことがとても悲しい。でも同時に、とても人間らしい二人を愛しくも思います。
あとクリスティーヌだけでなく、エリックも彼女に謝りたいと言っているのがまた印象的ですよね。「彼女に悪気がなかったのは分かっている。怖がらせて悪かった」と。冒頭のジョセフ・ブケーもエリックの顔に驚いて怯えていたし、エリックは自分の顔が他人を怖がらせることを知っていたんだよね…。なんだかなー…もうちょっと段階踏んでたらこんな結末にはならなかったんじゃないかなってね。つい、たらればを考えてしまうな。

だからこそ、傷ついたエリックがキャリエールの告白によって自分がずっと愛されていたことを知れたことは良かったと思うし、最期にクリスティーヌが仮面の下の素顔にキスして、謝罪の気持ちと愛を伝えられたのも良かったなと思う。エリックの死はとてもつらく悲しかったけど、ありのままの自分を愛してくれる人がちゃんといることを示した終わり方には救いがあるなぁと思ったのでした(死んだら元も子もないって言ったらそれまでだけどさ)

エリックもクリスティーヌもキャリエールも、強いところもあれば弱いところもあり、時には間違えながらも一生懸命生きよう、大切な人を愛そう、と前を向いている。
「ファントム」はそんな人間ドラマがたまらなく愛おしい作品でした。