2019年7月30日

雪組「壬生義士伝」全体感想

2019年7月28日、雪組「壬生義士伝/Music Revolution!」のマイ初日観劇をして参りました。
正~~~直に申しあげれば手放しに「最高!!」と言える作品ではなかったのですが、雪組自体は最高オブ最高でした!!!!!雪組大好きだ~!!!ウワ~!!!!
というわけでまずは「壬生義士伝」の感想を書いておこうと思います。

原作は観劇後に読もうと思い未読。予習として2004年の映画版は見てから臨みました。
というわけであらすじは知っているものの、多分色々アレンジされてるんだろうなぁ…とは思ってはおりました。
おりました、が…!!

ダーイシ(石田昌也先生)の演出と趣味が合わねぇ~~~~!!!!!

てのが最後まで引っかかってしまい、残念ながら「お芝居を120%楽しめた!」とはならなかった感じです、ハハハ…。
その最大の原因は冒頭の鹿鳴館の場面と、鹿鳴館チームの使い方。アレ…もうちょっと上手くやれなかったんかなー…と。

映画でも「明治時代→幕末の回想→明治時代→幕末の回想」と時代を行ったり来たりする話の流れだったので、まず明治の時代から話を始めるのは分かります。舞台を大野医院から鹿鳴館に変えたのも、宝塚らしい華やかさを出したかったのかなと考えると分からないでもない。
でも国粋主義の暴漢がいきなり鹿鳴館を襲うとか出だしからとってつけた感満載だし、芸者さんや女学生のダンスレッスンも「出番が少ない娘役たちの見せ場を作るための芝居」感が凄いし、何よりひめさん(舞咲りん)演じるビショップ夫人のキャラクター造形があまりに雑で…。私も詳しくはないけど、実際のビショップ夫人は絶対あんな人じゃないだろうなと気になって仕方なかったです。しゃべり方とか「昔の漫画か!?」って感じだし、「乾杯の歌」は良かったけど作品に合ってるかといえば謎だし、そもそもビショップ夫人って歌手でもダンス講師でもないし。
いっそ実在する人物の名前じゃなくて、適当な架空のキャラクターを宛がっておけばこんなにモヤモヤすることもなかったのにな~!?何でビショップ夫人にしたんだ石田先生~!?

あと折角専科からカチャ(凪七瑠海)を呼んだのに、舞台を横切らせているだけなのあまりに使い方が下手では…!?
映画のように斎藤一を幕末と明治で交互に出し続けるのは難しいから、明治パートでは斎藤の代わりに松本良順を配置したのはなるほど、と思ったのだけど…いくらストーリーテラーだとしても、場面転換の時に舞台を横切ってしゃべるだけってどーなの!?この「歩いてしゃべるだけ」って場面が何回も出てくるので、その度にお芝居の流れが一旦途切れてしまう印象も受けました。もう少し工夫が欲しかったなぁ…。
ついでに近藤勇との繋がりから松本良順を出すことにしたのなら、少しだけでも幕末の場面にカチャも出せばよかったのに。うーん勿体ない。
(ただ、明治パートを鹿鳴館の時代にしたことで、警官姿の斎藤一ことあーさ(朝美絢)が観られたことには心から感謝してます、先生!!)

他にも、登場人物の関係を台詞だけの説明にしちゃってるのが勿体ないなぁと。まぁこれは長い原作をミュージカルにする以上、ある程度は仕方ないことではあるんですが~!
気になったのは、序盤の盛岡での人物関係が分かりにくいところと、後半のみよが登場する辺りかな。特にみよ…きいちゃん(真彩希帆)の出番を増やすために作った場面というのは分かるんですけどね、しづとみよってWヒロインみたいな関係じゃないですか。それを一人の人間が演じるって、予備知識なく観ると混乱の元なのではないかなーって…。
せめて貫一郎とみよが初めて出会った時の場面くらいあっても良かったのでは…?貫一郎が初めて店に訪れた際に、みよをしづと見間違えたとか。それがあれば、みよが出てきた時の「何か急にしづが綺麗になって出てきたぞ?」感も薄れると思うんだけどなぁ。いや尺が足りないんだろうけどね、分かる、分かるけどやっぱりさ~!!
そういえば二人のお見合いの場面も謎だったな…縣くんの池波六三郎はまぁ新選組隊士だからまだいいとして、ひまりちゃんの女中は何であそこにいたんだろ??

それともう一点気になったのは、貫一郎の武士としての「義」が少し分かりづらく感じたこと。
脱藩して新選組に入り、家族に仕送りするため人を斬っていたというのは分かるし、何より家族を大切に思っていたことは全編を通じてとてもよく描かれていたのだけど、武士としての誇りについてはあまり描かれていなかったような…?
なので、鳥羽伏見の戦いの時に「義のため」と勝ち目のない戦場に駆け出すのはちょっと唐突に見えたなぁ…いや、一応幕臣に取り立てられてはいるし、世話になった新選組にも恩義はあるだろうし、筋は通ってるんですけどね。ウーン。どう見ても家族>>>新選組って感じだったじゃん??
お芝居の流れ的には、たとえ卑怯者と罵られても新選組を捨て、家族のために生き抜く道を選んでもおかしく感じなかった気がする。そうなると話が全然違っちゃうけども(笑)
この辺はもう一度観ればまた感じ方も変わるかなぁ…どうだろう。

と、ここまでつい残念ポイントばかり書いてしまったので超今更感はありますが、全体的にはとても良いお芝居だったと思います!ほんとにほんとに!!
だいもん(望海風斗)のお芝居には毎度のことながら心というか魂が揺さぶられるし、二役を演じたきいちゃんは対照的な女性をきっちり演じ分けていてさすがでした。そして「ファントム」でも堪え忍びまくったさきちゃん(彩風咲奈)は今回もまた辛い役どころを堂々と演じていたし、新選組の面々もとても良かった!(この辺は改めてキャスト別感想を書こうと思います)

先に映画を見て展開を知っている分ね、貫一郎の旅立ちの場面なんかもう辛くて…道中手形を用意してあげても、直接見送りはできない次郎右衛門とかね。あの舞台での位置関係も凄く良いね…何とも切ない。
しづや子供たちとの別れも切ないんだけど、その後の「石を割って咲く桜」がもう最オブ高…制作発表の時から何て美しくて切ない曲だろうと涙腺刺激されてましたけど、あの場面で歌われるとホント切なさとしんどみ大爆発ですよ。だいきほの歌声がまたす~~~ごく美しくてさぁ…沁みるのなんの!!そりゃもう涙腺も崩壊しますよね…;;;

かと思えば、新選組の場面ではワチャワチャ感がすごく可愛かったりね!!辛い場面も多いけど(おにぎりとかおにぎりとかおにぎりとかさ…)ほっこりする場面もあって、話が重くなり過ぎなかったのは良かったと思います。

終わり方も良かったなぁ。
物語としては貫一郎としづって再会が叶わず二人とも亡くなってしまうわけだけど、宝塚のお約束として最後にだいきほがまた舞台に表れて、他の登場人物たちもどんどん集まって華やかに終わるのがありがたかったです。
悲しい最期を迎えたけど、貫一郎はここに集まった人たち皆に愛されてるんだなぁ…って雰囲気が温かくてね、とても素敵なラストシーンでした。

「いくら和物の雪組とはいえ新選組ものやりすぎでは!?」とか、「だいもん毎回毎回死にすぎでは!?」とか、突っ込みどころはまぁ色々ありますが(笑)
だいもんを筆頭に、今の雪組のレベルの高さを改めて実感できるお芝居でもありました。
あと何回か観に行く予定なので、より深く壬生義士伝の世界を楽しみたいなと思っております。

2019年7月21日

東宝版エリザベートを観てきたので、宝塚版と比べてみた

感想は書かなくてもいいかな~と思ってましたが、たまにしか観られない作品ですし観劇記念兼備忘録として書いておこうかと。
ってことで、2019年7月15日に帝国劇場にて「エリザベート」を観劇してきましたよ!
私が観た配役は下記の通り。

エリザベート:愛希れいか
トート:古川雄大
ルキーニ:山崎育三郎
フランツ:田代万里生
ゾフィー:涼風真世
ルドルフ:三浦涼介
少年ルドルフ:陣慶昭

ちなみに宝塚版エリザは18年月組版をライビュで、16年宙組と14年花組は劇場で観劇。それ以前の公演も映像でちょこちょこ見ています。
東宝版エリザは15年に花總・城田版を観劇。
(あと全然覚えてませんが、10年に山口祐一郎トートを見ているのでそれがエリザ初観劇です。が、シシィが朝海さんだったか瀬奈さんだったかも覚えてないくらい記憶に残っていない…)

てことで東宝版を観るのは4年ぶり。しかもその間に宝塚版の映像を何回も観ているので、久しぶりの東宝版は色々衝撃でした。
何ていうか…全体的に生々しいよね、東宝版は!びっくり!!
宝塚版のふんわりオブラート表現と様式美に慣れていたので、あらゆる場面で「え、マジで!?」と不意打ちをくらうっていう。
あと音楽もね、同じ曲でも宝塚版とはメロディーが変わっていたり追加されていたりするので聞いてて「知ってるメロディーと違う…」となることもしばしば。
知っているようで全然知らないエリザベートだったなぁと観終えた時に感じました。

以下、覚えている範囲で宝塚版と東宝版の違いを箇条書きにて。

☆第一幕
・冒頭(とラストシーンでも)ルキーニが首に縄をかけた状態で登場、実際のルキーニが刑務所内で首吊り自殺したエピソードが強調されているのかな?逆にヅカルキーニおなじみの、手錠を引きちぎって「エリザベート!」と叫ぶ始まり方は無し。
・「パパみたいに」の場面でマックスパパがシシィの目を盗んで家庭教師と浮気してる!シシィが「パパみたいになりたい」と歌ってるのを聞いても「いや、こうはならない方がいいって…」と心の中で突っ込んでしまった(笑)
・トート閣下がシシィを見初める場面、二人の立ち位置が結構離れているので一目ぼれしたって印象が薄い…宝塚版だと閣下があからさまに「ハッ!この娘めっちゃ可愛い!!好き!!」て表情をするし、動きやちょっとした仕草で「恋に落ちた黄泉の帝王」を印象付けられるんだな。東宝版でも「愛と死の輪舞」は歌うんだけど、恋愛的にシシィに惹かれたって印象は薄かったです。
・バートイシュルのお見合いシーンで、雲隠れしたマックスパパの代理でシシィが参加したことになってる。パパ堂々とさぼりかよ!やっぱこのパパみたいにはならん方がいいよ、シシィ!!
・お見合い中に落ちて転がるのは果物ではなくヘレネのでっかい髪飾りで、拾ったシシィが付け直そうとしてあげる(可愛い)
・フランツがシシィを選んだことで、ヘレネが「3年間の花嫁修業がパァ!?」と嘆く台詞がある。そうだよな~ヘレネには気の毒すぎるもんなこれ…。
・フランツがシシィにプロポーズして歌う場面で、シシィが「自由に生きたい」アピールをするのに対し、フランツが「皇帝にも皇后にも自由はないから!ホント自由とかないから!!そこはホント覚悟して!!」と滅茶苦茶念押ししてたw東宝版はこの「自由を求めるシシィ」がより強調されてますね。
・フランツとシシィの結婚式の場面で閣下が目立たない(笑)ってかどこにいたんだ??
・「最後のダンス」後におびえるシシィを伴ってフランツが袖に消えると、ルキーニが「エリザベートは皇后の務めを果たしたのか?」とあからさまに性行為を臭わすように言うのでドキリとするんだけど。新婚翌朝にゾフィーがやって来るところで、ベッドの布団をめくってシーツが真っ白なことを見せつけるのにさらにヒェ~!てなりました。宝塚では絶対にない演出だな(笑)
・フランツがゾフィーの肩を持つので絶望するシシィ、宝塚版ではこの時にナイフで自殺しようとして思いとどまるけど、東宝版ではそもそも自殺しようとしない。これは大きな違いですよね~!「私だけに」を歌い終えたシシィは失神しないし、閣下も登場しないし、当然シシィのナイフを拾って持ち帰りもしない。
これ、宝塚版はシシィが心のどこかで「死=トート」に惹かれていることを表しているのかな?フランツが自分より母を選んだことで、自分も死を選ぼうかと思うけど「私は誰のものでもないわ」と気付いて自我に目覚める、みたいな。でも死を選択肢に入れたことで、閣下も「シシィは心のどこかで俺(死)を求めている…!もうちょっと待ってみよう!!」と希望を持つ、みたいな(笑)
ここも、宝塚版はトートとシシィの恋愛要素を盛り上げるための演出だったんでしょうね。
・フランツとシシィがハンガリーを訪問する場面、エルマーが銃で二人を暗殺しようとしててびっくりした!宝塚版だとエルマー・シュテファン・ジュラってサンコイチで三色旗を振ってたな…くらいでそこまで大きな違いがないイメージなんですけど、東宝版はエルマーがすごく目立つし重要な役どころなんですね。まぁ暗殺は当然失敗するんだけど、騒ぎになったところでシシィが三色旗ドレスを披露→ハンガリーの民衆が湧き立つという流れは変わらず。その後、閣下はエルマーたちをウィーンへ行くよう促すというよりは逃がすのを手伝ってあげる感じだったかな。あ、あとシシィの長女ゾフィーがハンガリー訪問中に死んでしまい、「娘を奪ったわね!」とシシィがトートを責める描写が入ってました。ウーン、やっぱり恋愛関係にはなりそうにない二人だ…。
・ゾフィーが子ルドを厳しくしつけている場面が足されており、ルドルフの可哀想度が上がっている。
・安らぎを求めてシシィの部屋を訪れたフランツに、シシィが「お母さまか私か、どちらか選んで!」と言って追い返した後。宝塚版だとクローゼットから閣下が現れるけど、東宝版はシシィの座っている椅子の後ろからニョッと出てきてびっくりした(笑)で、まぁシシィに迫って断られた後の閣下なんですけど、宝塚版はお行儀よくわざわざ扉から出て、なんとも切なげな表情をしますよね。それも東宝版はなし。シシィに断られた閣下は部屋のろうそくを吹き消して、そのまま舞台が暗転、次の場面に行くという流れ。ウーン、やっぱり恋愛関係にはなりそうにな(ry
・ミルクの場面、民衆を扇動するのはトート閣下ではなくルキーニ。この辺りから「ルキーニってシシィを心底軽蔑してるんだな」ていうのがだいぶ表に出てきたと思う。

☆第二幕
・「キッチュ」でルキーニが写真を撮らない!鳩も出ない!!(笑)カメラがないことで、この後のマダム・ヴァルフの場面も変わってきます。
「キッチュ」の歌詞もかなり違っていて、フランツがハンガリー国王になること、皇帝夫婦の仲の良さなどを皮肉たっぷりにあげつらったかと思えば「本当のエリザベートはかなりのエゴイストだし、子供の養育権をゾフィーから奪い返したのに育児放棄しているし、スイスの銀行に隠し口座を作ってる」と辛らつに批判する内容。「おとぎ話じゃないぜ」という歌詞もあって、やはりドキッとしますな東宝版。
・子ルドの「ママ、どこなの?」の後、宝塚版はゾフィーと重臣たちの企み→マダム・ヴォルフのコレクションって流れになるけど、東宝版は先に精神病院訪問の場面になる。これは宝塚版の方が流れが分かりやすいのでは?という印象。
・「マダム・ヴォルフのコレクション」でマデレーネは黒天使ではなく、普通の人間の娼婦。つまり閣下の差し金ではないということで、じゃあ何故彼女が選ばれたかといえば職業病(梅毒)を患ってるからっていう…おい待て正気か!?ってツッコミ入れたくなっちゃうよね!そりゃシシィが性病に感染すればフランツの浮気が分かるだろうけど、当時まだ治療法は確立されてないはずだから下手したらフランツも死ぬリスクがあるのでは??あとマデレーネの衣装が貞操帯を模してたのもどぎつかったなぁ…。
・運動中に倒れるシシィの原因が、過激なダイエットのせいではなく性病に感染したからという理由になってます。で、そこでフランツの裏切りを知るという。閣下がドクトルゼーブルガーとして現れるのは同じだけど、「死ねばいい!」の台詞がないのでなんか物足りない(笑)
・シシィが旅に出てしまい、フランツはとうとうゾフィーとの決別を宣言。ゾフィーは息子が自分から離れることを嘆き、私情を捨て、厳しくあらねばこの国は滅びると憂いながら死んでいくという…ゾフィーが亡くなる時にソロ曲があるのはいいなぁ。
・旅先でコルフ島を訪れたシシィが、憧れている詩人ハイネに倣って詩を書こうとするとマックスパパの思い出が蘇ってくる…という場面がある。で、「パパみたいになれなかった」と寂しそうに歌うんだけど、東宝版のパパは自由人というよりだらしない印象だし、シシィも超エゴイストなので…ウン。憧れる対象を間違えたんじゃないかなって気持ち…。
・青年ルドルフがフランツと対立する辺りでは、かなり政治的な皮肉が込められている印象。ルキーニがヒトラー風の衣装になり、巨大なハーケンクロイツの旗がバッと舞台に広げられたのにはギョッとした。この時代のドイツ頼みの外交や反ユダヤ主義の台頭が、後のアドルフ・ヒトラーを生んだというハプスブルク家への批判を表しているのかな…ぼんやり生きてる日本人の私でもギョッとしたのだから、ウィーンでこの演出があったら物凄いインパクトがあることでしょうね。良いか悪いかは別として。
・ルドルフの妄想戴冠式で王冠を授かる場面にシシィが出てこなかったような…。
・ルドルフが絶望して自殺するマイヤーリンクの場面、東宝版は先に閣下にキスされてから銃を撃つんですね!?この違いはめっちゃ興奮した!!(笑)なんだろう…先にキスをすることで、「死(トート)に導かれるまま命を失ったルドルフ」って印象が強まった感じ。宝塚版は先に自決してからのキスだから、死神が魂を回収するためのキスってイメージもあるんですよ。東宝版の方がより退廃的で、ゾクッとする演出でした。
・2回目の「キッチュ」もルキーニのシシィ批判は痛烈。実際のエリザベートの写真?絵画?をスクリーンに映し出しながら歌うんだけど、息子を失って悲しみに暮れる皇帝夫婦の姿を「騙されるな、不幸を切り売りするしたたかな奴だ」と批判するっていう。シシィのグッズを持って登場するのは宝塚版と同じなんだけどね、宝塚版は「人は知らない悲しみを抑えた微笑みを」って歌詞でシシィに同情してるようにも感じられたからさ!東宝版ルキーニは明確な悪意をシシィに抱いてるのが強く伝わってちょっと怖かったし、それによって作品全体の印象も変わりましたね。
・「夜のボート」でシシィと別れた後にフランツが「悪夢(フランツの親族である王侯貴族が次々不幸な死に方をするオペラで、それを指揮しているのがトート閣下という内容)」を見る場面があり、ルキーニはそこでトートから凶器のヤスリを受け取る。宝塚版の「最終弁論」に当たる場面だけど内容が全然違うし、なんか…東宝版のフランツめっちゃ気の毒だなって思いました(笑)
・ラストシーンでルキーニに刺されたシシィは自ら黒いドレスを脱ぎ、白いシンプルなドレス姿に。そこへ閣下が歩み寄ってキスをして二人は黄泉の世界へ…て流れかとは思うんだけど。東宝版では棺のような装飾の壁にシシィが寄りかかって眠り、それを閣下が側で見守っているだけなので、やっぱり死んで2人が結ばれるっていう印象は薄いな~。あとシシィのすぐ側で首吊りのロープをひっかけたルキーニがやっぱり死んで倒れてます。最後までディープインパクトだぜルキーニ…。


と、セットリストを横目に思い出せる範囲で違いを書き出してみたら結構あった!
一つ一つは細かい違いだったりするけど、それが積み重なることで作品全体の印象やテーマも大きく違っているんだなと感じました。

宝塚版は主人公がトートという独立したキャラクター。死という概念を擬人化したキャラクターが、シシィを手に入れるために様々な画策を図ったことでハプスブルク家は滅亡という悲劇的結末を迎える。でも、トートは最後の最後でシシィの愛を手に入れて二人は結ばれるので、ハッピーとは言わないまでもメリーバッドエンドって感じ。そこへ至るまでのトート閣下の心の機微(フランツへの嫉妬心や、シシィに拒否された時の落胆など)も随所で描かれるので、恋愛物語として分かりやすい構成になっていると思います。

東宝版の主人公はシシィ…なんだけど、彼女も主要登場人物に過ぎず、本当の主人公はルキーニなのでは?と思いました。というのも、狂言回しであるルキーニ自体の主義主張がかなり物語に反映されていると感じたから。宝塚版のルキーニはあくまでストーリーテラーにすぎず、トート閣下の手駒の一人という印象もありました。それに対し、東宝版は全てがルキーニの妄想であり、暗殺者ルキーニの目から見たエリザベートの一生を劇中劇として見せられているのでは?なんて考えちゃいましたね。
Wikiを見ただけだけど、実在のルキーニはシシィ暗殺の理由として「エリザベートを狙ったのはたまたまで、王侯であれば誰でも良かった」と言ってるそうだし。自己顕示欲が激しく、特権階級である王侯を憎んでいたルキーニが、自分の行い(暗殺)を正当化するために「エリザベートは殺されても仕方のない人間だ」と地獄の裁判官に語る物語に見えた。死(トート)に愛されたというエピソードもある種の呪い(次々と不幸が襲う)として描かれている印象だったし、それに加えて彼女の自分本位な行動によってハプスブルク家は滅亡したっていうね。それが東宝版の「エリザベート」なのかもしれない。
カフェブレイクだったかな…月城かなと君がルキーニを演じる時に、「『エリザベート』というお話自体がルキーニの妄想かもしれないことを念頭に置いて演じて」というようなことを小池先生に言われたとお話しされてたんですけど。今まで宝塚版を見ていてそう感じたことはなかったので「そういう見方もあるのか」と印象に残ったんですが、東宝版はまさにそんな感じでしたね。

というわけでルキーニが何故エリザベートを殺したかという点については滅茶苦茶分かりやすい東宝版でした(笑)
あと全体的に表現がリアルで下品なのも、暗殺者ルキーニ視点だからだと考えると納得。
ついでに東宝版はフランツよりルキーニの方が役としての格も上だし。それも納得だな~。

好みで言えば宝塚版の方が好きかなと思いましたが、東宝版を観て作品の理解度は上がったように思います。
やっぱり「エリザベート」は名作だし、この先も機会があれば(というかチケットにご縁があれば)見続けたい作品だな~大好き!!