2019年9月8日

ここが分からんダーイシ脚本 雪組「壬生義士伝編」

「壬生義士伝」を映画版→宝塚版→原作小説の順に履修した結果すっかり原作ファンになり、宝塚版のダーイシ(石田昌也先生)脚本にモヤモヤして仕方なくなったので発散するために書いた文章です。
宝塚版で一番モヤモヤした「淀川決戦で貫一郎が特攻する場面」については先に書きましたが(こちらの記事)それ以外にも「なんでやねん!?」と突っ込みたくなる描写が多かったので…「ここが分からんダーイシ脚本」として記事にしました。大好きな雪組の舞台を心から楽しみ切れず、モヤモヤが残ってしまった自分自身への供養でございます。南無。
あ、ちなみに原作小説のネタバレを多大に含みますのでこれから読むつもりという方はご注意くださいませ!!

まず、基礎知識として原作小説の構造について。

●吉村貫一郎の独白と、貫一郎のことを知る複数の人物による回想パートとが交互に紡がれ、過去と現在二つの時間軸でそれぞれストーリーが進行する形式になっている。
●貫一郎の独白は鳥羽伏見の戦いの後、南部藩蔵屋敷に辿り着いた所から彼が命を絶つまでの時間軸。
●回想パートの時代は明治維新から50年後(大正5年頃)。吉村貫一郎のことを調べている新聞記者が、幕末の彼を知る人物に会いに行ったり手紙をやり取りして取材するというもの。取材対象となった人物(各パートの語り手)は下記の通り。

・居酒屋「角屋」の店主(元新選組隊士)
・桜庭弥之助(大野千秋の友人で、南部藩時代の貫一郎の教え子)
・池田七三郎(元新選組隊士。縣千君が演じた池波六三郎とほぼ同じ人物)
・斎藤一
・大野千秋
・佐助
・吉村貫一郎の次男
(・大野次郎右衛門)

大野次郎右衛門のパートはジロエが直接語るわけではなく、彼が残した手紙が本文になっています。
とりあえず、宝塚版では明治維新から18年後に当時を振り返っているのに対し、原作では50年経ってから振り返っているというのだけ頭の片隅に置いておいてください。

んでは本題の「ここが分からんダーイシ脚本」について、

①鹿鳴館で「斎藤一」と派手に紹介されることについて
②谷三十郎殺しの件で斎藤一から金を受け取った貫一郎の描写について
③大野次郎右衛門の最期について
④鹿鳴館チームのことも改めて物申したい

の4点を言及していくよ!


①鹿鳴館で「斎藤一」と派手に紹介されることについて

まず大前提として、史実の斎藤一は明治時代には藤田五郎と改名しています。
以前雪組で上演した「るろうに剣心」に登場する斎藤一も、初登場時に「今は藤田五郎と名乗っている」と話していますよね(まぁ、劇中で誰も藤田なんて呼んでないけど…)
改名の理由は色々あるでしょうが…普通に考えれば、新選組が新政府側から恨まれまくってるからでしょうね。何しろ薩長の維新志士を殺しまくってるわけだし、元新選組なんてことが知れたらいつ何時「同志の仇!!」と命を狙われるか分からない。実際、原作では戊辰戦争後に新政府軍が新選組の生き残りを探していた様子も描かれています。
「壬生義士伝」の斎藤一はあの性格なので「別に仇討ちなど恐れていなかった」なんて言ってますが、それはさておき。

原作の語り手として登場する元新選組隊士は、明治維新から50年経っても未だに「仇討ちされるのでは」という懸念を抱いていたりします。皆もうすっかりおじいちゃんになっているのに、です。
それくらい新政府軍と旧幕府軍の争いははお互いに禍根を残したし、旧幕府側だった人間は非常に肩身の狭い思いをして明治の世を生きていた…ということが原作小説では克明に描かれているんですね。

つまり薩長出身者が支配する明治時代に、それも明治18年のまだまだ幕末の志士たちが元気な頃の東京で「元新選組の」と大声で名乗るなんておかしくないか?ってことです。
劇中で池波君が暴漢に名乗りをあげたかと斎藤に尋ねますが、「あげるわけねーだろ!!」と観劇の度に心の中で突っ込んでおりました…(笑)
たとえば、

暴漢「つ、強い!てめぇ何者だ!?」
斎藤「警視庁警部補、藤田五郎だ」
暴漢「藤田…?もしかして元新選組三番隊組長、斎藤一って噂の!?」
斎藤「噂が本当かどうか、試してみるか?」
暴漢「ひっ…!くそ、引くぞ!!」

と暴漢側に語らせて、その後みつが「元新選組の斎藤一様というのは本当ですか?」と話しかければ、時代背景に沿いつつ話が進められたのでは。
何でこんな細かいことを気にするかと言うと、先述の通り旧幕府側の人間が明治になってどんな罰や差別を受けたのかということも原作では語られているからです。そして彼らが、どれだけ歯を食いしばって困難を乗り越えていったのかということも。
それらは全て、原作者の浅田次郎先生が綿密な取材の上で書かれたことでしょう。そうして長い長い時間をかけて大切に描かれた原作の世界観を軽視するような表現が、私はどうにも我慢ならんのでした。
原作には!最大限の敬意を!!払ってくださいよ!!!


②谷三十郎殺しの件で斎藤一から金を受け取った貫一郎の描写について

これはねぇ…原作ファンからしたら淀川決戦の特攻シーンと同じくらい怒り心頭の描写だったのではないかと思います。
谷三十郎を殺したのが斎藤一だと見破った貫一郎が彼から20両の賂(まいない)を受け取る場面、私が観劇した時は毎回くすくす笑いが起こっていました。それはやはり、貫一郎の「20両で、よがんす」でそれまでの緊張感が一気に緩むから。ルサンクに掲載されている脚本にも、貫一郎が「ニヤリ」として20両を要求すると書いてあるのでそういう意図を狙った演出だったんでしょう。
更にその後、沖田・永倉・原田がワイワイ出てきてアドリブもあったことで「ちょっと笑える場面」みたいな印象が強くなってました。
が。
この場面、原作の斎藤一による回想では次のように描かれています。

 おなごのように長いまつげをしばたかせながら、吉村は足元に目を落とし、いきなり意想外のことを呟いた。
 「ならば斎藤先生、わしに銭こば下んせ」
 とな。
 (中略)卑しい言葉を口にしたとたん、奴は口中に残った毒を噛み潰すかのようにきつく目をつむり、唇を引き結んだのじゃ。眦には涙すらうかべておった。
 奴は意に添わぬつらい言葉を吐いたのじゃろう。
 (中略)ただわしが言えるのは、あの吉村貫一郎という侍は決して本性からの守銭奴ではなかった。銭のためなら何でもするという類いの、卑しい侍ではなかった。
 【浅田次郎「壬生義士伝・下巻」2002年 文芸春秋刊 より引用】

…おわかり頂けただろうか。
全っっ然違いますよね!!ニヤリと笑うどころか、したくもない強請りをするのが辛くて泣いてるんですよ貫一郎は!!
原作の貫一郎は「人を斬るのが本当は辛くて仕方なかった」という独白もしているんですが、斎藤は「吉村の人柄からして、強請りは人斬りより辛かっただろう」とも語っています。
それくらい性根が優しくて、悪いことなどできない真っすぐな人間が「家族を養う」という義を貫くために強請りまでしていた…という何とも切なく苦しい場面なんです。

それを何で!!泣くほど辛い思いをしていた貫一郎を!!「ニヤリ」とさせたんだ、ダーイシー!!??

もう本っ当にダーイシの感性が私には分からない…何を伝えたくてニヤリとさせたの?何でちょっと笑えるシーンみたいにしちゃったの??
沖田・永倉・原田のワチャワチャと土方さんの切れ者ぶりの芝居をさせたかったにしてもさ、貫一郎をニヤニヤさせる必要はないじゃない?
ってことでこんなんどうよ?な妄想代替案(笑)ですが、

貫一郎が言いにくそうにお金を要求する
→斎藤は驚くが、貫一郎の辛そうな様子を見て「…持っていけ、20両ある」と渡す
→「おもさげながんす」と金を受け取って走り去る貫一郎、そこへ沖田たちがやってきて「吉村さんにはお見通しだったんですね。中々したたかな人だなぁ」と軽口を言う
→斎藤が「そんな器用な奴じゃねぇだろうよ」と貫一郎をかばうようなことを言い、ちょっと驚く沖田。バツが悪くなって「…しかし20両は多すぎた、お前ら5両ずつ出せ!」と金を要求する斎藤。

て感じ…いかがでしょうか。
そこからワチャワチャ芝居が始まるなら、貫一郎が根っからの守銭奴ではないことを伝えつつ、斎藤・沖田・土方のやり取りを楽しめる場面にもできたんじゃないかな~なんて。
しかし浅田次郎先生はこの場面をどういう気持ちでご覧になってたのかなと思うと…うっ、頭が痛い。


③大野次郎右衛門の最期について

宝塚版では秋田征伐の最中に、鉄砲で撃たれて死んでしまったジロエくん。
1回目の観劇の時は「貫一に続いてジロエまで死んでしまうなんて;;;;」とただ悲しくて泣きましたが、原作を読んでから臨んだ2回目の観劇時には「なんでここで殺しちゃうの!?;;;;」と泣きながら怒りが爆発しました(笑)
というのも、原作のジロエは秋田征伐戦後も生き残って色々と大事な仕事をしているからです。

そもそも、何でジロエが貫一郎に切腹を申し付けなくてはならなかったのか…舞台だけご覧になった方ってちゃんと分かりましたかね??
一応「南部二十万石と壬生狼一匹を秤には掛けられねぇ」って台詞がありましたが、あの時点で南部藩は幕府側につくか新政府側につくかをまだ決めていませんでした。天下がどう転ぶか分からないので、中立の立場をとって情勢を見極めようとしていたんですね。おまけに南部藩蔵屋敷は大阪にあるので、本国盛岡からは遠く離れた陸の孤島状態。そこで下手なことをして南部藩が攻められるようなことがあっては一大事ってわけです。
その難しいタイミングで、バリバリ幕府側である新選組隊士が南部藩に助けを求めてきた。これを匿ったことが薩長に知れたら、南部藩は幕府についたと見なされて攻められる可能性があるわけです(ちなみに南部藩蔵屋敷のすぐ隣は彦根藩蔵屋敷で、彦根藩は薩長側。貫一郎の騒ぎが大きくなったら非常~にヤバい状況です)
だからこそジロエは、無二の親友である貫一に切腹を命じることしかできなかった。どんなに貫一を助けたくても、彼の立場がそれを許してくれなかったんですね。は~切ない…。

そして貫一郎切腹の後、ジロエは南部藩に呼び戻されます。
幕府につくか薩長につくかで南部藩内でも意見が割れたため、大阪勤めで情勢に詳しいジロエに意見を求めようとなったんです。そして多くの人は「御家大事」のジロエのこと、南部を守るために薩長につくだろうと思っていました。ところが南部藩に戻ったジロエが「薩長は断じて官軍にあらず」と進言したため、薩長に与した秋田を攻めることになった…というのが話の流れです。
この時、何故ジロエが南部を危険に晒してでも薩長と敵対する道を選んだのか。ジロエ本人の口からは明言されていませんが(※)貫一郎の死と無関係ではないでしょう。ジロエは「吉村貫一郎こそ真の南部武士である」と心から貫一郎を敬愛し、彼がいないと生きて行けないというくらい大切に思っていた。そんな彼を死に追いやった自分が許せないのと同じくらい、薩長が憎かったでしょうからね…。
(※9/11追記:原作を読み返したら大野次郎右衛門の手紙の中で秋田攻めについての記述もありました、確認不足ですみません!この解釈がまるっきり的外れというわけではないと思うので、記述はそのままにしておきます)

秋田征伐では先陣を切って戦ったジロエですが、無茶な戦い方をした割には傷一つ負わずに生き残った、と原作にはあります。
生き残ったとはいえ、賊軍の将として明治2年には処刑されてしまうのですが…その処刑されるまでの間、ジロエは藩の仕事以外に大事な仕事を二つしています。
一つは、自分の死後、息子千秋の後ろ盾となってくれる人を探すこと。
そしてもう一つは、遺された貫一郎の家族の面倒をみること。

戊辰戦争後、南部藩は官軍に歯向かった罪で多額の賠償金を支払わなくてはならなくなります。それにより元々苦しかった財政はより悲惨なことになり、薩長と戦う道を選んだジロエの評判は地の底まで落ちました。千秋を始め、残された家族はとても南部藩にはいられなくなるだろう。そう考えたジロエは、千秋に「この手紙の人物を尋ねよ」といくつかの手紙を渡します。その手紙を頼りに東京に向かった千秋は、ジロエと親交のあった元南部藩士の医者と知り合い、医学の道を進んでいくことになります。

もう一つ、貫一郎の家族について。長男嘉一郎は秋田征伐に参戦、長女みつは千秋が面倒を看る、妻しづは病で臥せっている…と知ったジロエが一番心配したのは、貫一郎がついぞ会えなかった次男坊のことでした。
①の斎藤一の項でも書いた通り、新政府軍は新選組の生き残りを探していました。それは吉村貫一郎とその家族もその対象だったのです。「真の南部武士」だった貫一の血を絶やしてはならない。そう考えたジロエは、まだ幼い次男坊を佐助に頼んで越後に逃がすのです。それは大野次郎右衛門の最後の仕事でもありました。
ちなみにこの次男坊、原作小説ではきちんと名前が出てきます。その名前が明かされるところはもう…胸がぐっと締め付けられて、切なさと愛おしさで世界が満たされるような感覚になる名場面ですので、未読の方も是非原作を読んで頂ければ幸いです。

つまりですね、ジロエが秋田征伐の時に死んでしまったら千秋は医者になれなかったろうし、次男坊も札幌の農学校には行けなかっただろうってことです。
どう考えてもあの場面でジロエを殺す必要はなくて、戦に向かう嘉一郎を見送った後、銀橋で歌を歌ってそのまま退場…でも良かったはず。
そして鹿鳴館の時代に戻って、千秋に「父は秋田征伐に参加した後、賊軍の首魁として処刑されました。でも、父が遺した手紙の紹介で南部藩出身の医師と出会い、私は医学の道を志したのです」と語らせれば話は綺麗に繋がるんですよ。

何で!!あそこで!!ジロエを殺したの!!!???

ほんっと分からん…淀川決戦で貫一郎に無駄死にルートを歩ませた上に、ジロエまで勝手に殺しちゃうの本当に分からん…。
そのくせ「吉村さんの想いは、いまも受け継がれているのね…」なんて台詞を唐突に突っ込んでくるデリカシーのなさ。貫一郎の想いを受け継がせるためには!!ジロエが必要でしょーが!!??
原作を読んでジロエくん強火担(笑)になった私が一番ムカムカしたのはここだったので、長々と書いてしまいました…おもさげながんす。


④鹿鳴館チームのことも改めて物申したい

やっぱさ~鹿鳴館チームの、特に女性陣の描写がひどくない??
ビショップ夫人の「漫画的な外国人キャラ」扱い(ビショップ夫人は実在するイギリス人旅行作家で、あの時代に世界中を旅して旅行記を残した凄い女性です)
みつがいる前で「貫一郎の見合いの話をして」とせがむ松本良順の妻・登喜(父に会えず寂しい思いをしていた娘に聞かせる話か?と思うし、別に楽しい話というわけでもない)
仲間が止めるのも聞かず一人で敵に突っ込んだのに、南部藩に命乞いをした父を「英雄だったのか?」とか言い出しちゃうみつ(その後の「英雄ではない、新選組の良心だった」という斎藤の台詞を言わせるためだけの台詞にしか見えない)
舞台の進行役として鹿鳴館チームを使うのはいいにしても、何ていうの…話を進めるのを優先しすぎてて、キャラクターの人物造形が雑すぎると思うんですよね。しかもその進めたい話っていうのもダーイシの主観に基づいているもので、原作の流れはさらっと無視しちゃってたりするという…アチャー…。

一番ドン引きしたのは、最後の最後のビショップ夫人と鍋島夫人の会話。
ビショップ夫人が「政府高官の奥方は、元芸者が大勢いる」と話したら、芸者や女学生が「玉の輿!」と俄然張り切ったというところ。
これホントいらなくない!?何でこんな品のない台詞を勝手にぶっこんだの!?
雪組生の大熱演で脚本のアラを一瞬忘れちゃうくらい感動的な舞台だったのに、この余計な台詞で一気に熱が冷めちゃったんですよね…。

たしかに、明治時代に女性が良い暮らしをしようと思ったらお金持ちと結婚するくらいしかなかったとは思いますよ。
でもさ、それを別にこのお芝居の流れで言う必要ってないよね!?
観客は貫一郎の壮絶な最期にもう涙涙で、妻子のために必死に生きた男の生きざまに胸を打たれてるわけですよ。その余韻に浸ってる最中、いきなり「まぁ女は結婚して成り上がるくらいしかないけどね!」て言われたらどう思います?マジドン引きだし「空気読め!!」って話ですわ。
しかもこれをビショップ夫人に言わせるのがまたさぁ…あの時代に世界中を旅するくらい気骨のある女性が、玉の輿を勧めると本気で思ってんの!?

まぁダーイシは元々女性蔑視的な台詞を書いたり、「すみれコードって知ってる?」と問い詰めたくなるくらい品のない台詞を書いたりで物議を醸しがちな演出家みたいですが…。
宝塚を支えているファンの多くは女性であること。
女性蔑視やセクハラ的な発言が大問題に発展する時代であること。
そういう意識を持って、作品と向き合って欲しいなぁと思ったのでした。
つい悪いところばっかり書いちゃったけど、ジロエとひさの描き方とか、良いと思ったころも勿論ありました。
でもねぇ…やっぱり総合的には、ひっどい脚本だったと思うよ。

他にも突っ込みたいところはあったんですが、ここまで書いたら疲れたのでこの辺で~!
長文を読んで下さった方、どうもありがとうございました!

6 件のコメント:

  1. 壬生義士伝を検索してたどり着きました。浅田次郎昨の上下巻を読み、いろいろ雪組公演との違和感もあったので、このブログで書いて下さったことに納得です。ありがとうございました。山茶花けい

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    1. コメントありがとうございます!検索でこのブログも引っかかるんですね!ビックリしました(笑)
      宝塚版は原作を読むと「アレ?」て思う表現がちょいちょいありましたもんね…ここに書いたのはあくまで個人的な解釈ですが、作品理解の一助になったのでしたら幸いです。

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    2. 私も検索していて、こちらのブログを拝見させていただけました。私は遠征して大劇場で観劇し、東京はチケットは手に入らず観劇しておりません。それでもよいかと思える内容でした。モヤモヤ感がありましたが、こちらを読ませて頂き納得がいきました。原作ありきの場合は忠実に再現して、そして膨らませて書いて頂きたいものですね。今の宝塚は駄作でもチケットは売れますから仕方ないのかなとも思います。今回の花の青い薔薇も?が頭の中を飛び交う駄作な気がして。明日海さんを見たい人には何でもよいのでしょうが。

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    3. >Unknown様

      わ、またしても検索から!ご丁寧にコメントをありがとうございます!!
      原作の全てを忠実に再現はできなくとも、原作ファンが顔をしかめてしまいそうな改変はやめて欲しいなぁ…と思います。「原作が好きで、初めて宝塚を観に来た」という方もいらっしゃるでしょうからね。原作への敬意を忘れず、宝塚らしい舞台を作って頂きたいと思います。
      花組の青薔薇も脚本が…と言われてるようですね。東京で観劇予定なので、どきどきしながら待ちます…。

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  2. 同じ気持ち2019年9月11日 0:23

    はじめまして。
    ツイッターからこちらの記事に参りました。
    全力で頷きながら読ませていただきました!!
    壬生義士伝をより深く理解するため、原作を読んでから観劇しましたが…え??となる部分が非常に多く、頭を抱えておりました。
    雪組のみなさんの熱演、トップコンビの歌の力でグッとくるものはありましたが。

    短い時間に収めるため、出番を振り分けるためにはそうせざるを得なかったのかもしれませんが、あまりにも原作へのリスペクトが足りないなと。
    セリフの陳腐な改変、人物造形の雑さ…モヤモヤが募っておりましたが、同じ考えをお持ちのカアネ様の記事を読んでホッとしています!!言葉にしてくださってありがとうございます!

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    1. 初めまして、コメントありがとうございます!
      私も作品の世界観をもっと知りたい!と思って原作を読んだのですが…観劇後に読んだら逆に混乱してしまったので、頭を抱えてしまわれたお気持ちがよく分かります(笑)
      でも雪組のお芝居力と、トップコンビの歌声は本当に素晴らしかったですよね!

      おっしゃる通り、尺の都合や出番の振り分け等の事情があるにしても、それと原作改変とは別問題ですよね。演出家の思い通りに舞台を作りたいのであれば、始めからオリジナル作品を上演すればいいわけですし。
      作品タイトルに原作者名をクレジットする意味を考えて、良い舞台を作って欲しいなと思います。

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