2019年9月29日

星組「GOD OF STARS-食聖-」感想 とちょこっとレビュー感想

2019年9月21日ソワレ、サンケイリビング貸切公演を観賞して参りました!
ポスター画像を見た瞬間から「何コレ、ジャ〇プかサ〇デーの料理漫画みたい!!めっちゃ観たい!!!」と思っていた星組公演でしたが、思った以上にハチャメチャで(誉めてます)超~~~~楽しかったです!!
「湿っぽいサヨナラ公演にしたくない、最後は賑やかに終わりたい」という紅さんの想いに、作・演出の小柳先生が2000%の想いで応え、愛と笑いと温かい涙で溢れる作品に仕上がっていましたね。
べにあーコンビ作品を全て見ているわけではないんですが、今まで観た中ではダントツで好きな作品になりましたw

「食聖」を観る前に一番気になっていたのは、主人公のホン・シンシン=紅孩児という設定。
「主人公のホンは天才料理人だけど過去の記憶がないよ!!」ってのは分かる。
「舞台が現代のシンガポールで、アイドルグループも複数登場するよ!」ってのも分かる。

でもキャスト一覧に「牛魔王」やら「鉄扇公主」やらがいるのはマジで意味分かんないんですけど???

というわけで、観る前は「もしかしてホンが紅孩児の生まれ変わりとかそういう話なのかな~?」と思ってたんです。
舞台映像をチラ見したら、こっちゃん(礼真琴)も孫悟空の格好をしていたから「紅孩児の生まれ変わりのホンと孫悟空の生まれ変わりのリーが、現代のシンガポールでバチバチの(料理)バトルを繰り広げるってことかな?」とかとかとか。

したらま~、そんな遠回しな表現は一切なかった!!何という潔さ!!!(笑)

本当にホン=紅孩児だったし、現代だろうと牛魔王が普通~に出てきて屋台でご飯食べちゃうっていうwww
そんなトンデモファンタジー…のようで、変に誤魔化しがない分「何でもアリ」な世界観が成立しているのが小気味よかったですね!そうだよねぇ、こういう何でもアリな世界観で中途半端に整合性(それこそ「現代に牛魔王は馴染まないから転生モノにしよう」とか)を取ろうとすると、却って寒々しいというかイタイ感じになっちゃったりするもんね。小柳先生の思い切りの良い世界観と、それを全力でパワフルに演じる星組のパワーが合わさって、最初から最後まで本当に楽しかったな~!!

個人的に、こういうトンデモ世界観の作品で肝になるのって、リアリティをどこで出すかってことではないかと思っています。舞台に限らず、面白いフィクションって虚構と現実のバランスが良い作品だと思うんですよ。
たとえば、世界観がファンタジーとか「こんな世界、現実にはない…けどあったらいいな」という虚構色の強い作品であれば、ドラマ(登場人物たちの感情表現など)はリアルに描くとか。
逆に世界観が現実味の強い現代作品であれば、ドラマ部分は「こんな都合の良い展開、現実にはない…けどあったらいいな」と夢のある話にするとか。
ファンタジー世界で夢見がちなフワフワ展開だと「ありえなさすぎ」と冷めてしまったり、現実世界で夢も希望もない展開だと「世知辛すぎ」とやはり冷めてしまったりする。勿論、どちらも悪いわけではなく「とことんファンタジー!」「とことんリアリティ!」な作品にも面白い作品は沢山あります。
それでもやはり、虚構と現実のバランスが良い作品って万人受けしやすいというか、誰がいつ見ても楽しめる良さがあると思うんですよね。

「食聖」でいうと、世界観はファンタジー寄りながらも、SNSやアイドルという現代らしさもあり。
ストーリーもコミカルではあるけども、恋や家族愛という共感しやすい人間関係もしっかり描いている。
そしてドタバタコメディでありながらも、宝塚らしい品の良さはきちんと残っている。

完全オリジナルの宛書で、あれだけキャラの濃い人物を沢山登場させつつ、話も面白い(かつ小柳先生ご本人の趣味嗜好(笑)も活かせる)作品を作れるって凄いな…しかも駄作が多いとされるトップの退団作でw
まぁ、アイリーンがホンに惚れたきっかけがよく分からなかったりもしたけど…それくらいは許容範囲かな。全く想像もできないってわけでもないし。

そして何より、小柳先生が書かれた台詞の端々にトップコンビと星組への深い愛が感じられたのがとてもとても良かったです!!
至る所で笑わせにくるのに、「星なんていらない。お前にくれてやる」なんて台詞をトップ→次期トップに言わせるのホントずるいわ~!!そんなん泣いちゃうよ!!
主題歌も中毒性があるというか、さすがヒャダイン氏という感じ。今回振付に参加された梅棒さんはよく存じ上げないものの、アイドルシーンの振付は「めっちゃアイドルっぽい!!」と大変興奮いたしました(笑)
あ、あと最後の大・団・円!!って終わり方も凄く良かった!舞台上に人が沢山いすぎる上に、それぞれが好きにお芝居してるからもう全然目が足りないんだけどwwwそういうワチャワチャ感がとても温かくて、素敵なラストシーンでした!!

べにあー率いる星組の皆さま、そして小柳先生、とっても楽しくてハッピーで元気がモリモリ湧いてくる素敵な作品を本当にありがとうございました!!

以下、ふんわりキャスト別感想です。


☆ホン・シンシン@紅ゆずる

正~~~直申しあげまして、苦手なジェンヌさんでした。
というのも、べにさん(紅ゆずる)お披露目「スカーレット・ピンパーネル」のパーシー・ブレイクニーが受け入れられなかったから。べにさん演じるパーシーが私の中のパーシー像と全く合わなかったんですよね~…でもべにさんご本人はパーシーをノリノリで演じてらっしゃる上に「生まれ変わってもパーシーを演じたい!」というようなことをおっしゃってるのを見て「せ、拙者には受け入れがたく候~~~!!!!!」と白目むいてぶっ倒れそうにもなりました。
それが「ANOTHER WORLD」を見た時に、オリジナルキャラクターであればべにさんの奔放さや軽妙さがプラスに働くんだなと気付き。今回の「食聖」でそれが紅ゆずるというスターの魅力なんだ、と今更ながら気付いた次第です。
劇中の「今いる場所で輝けば、いつか必ず結果が出る」という台詞や、アイリーンの「完璧だから素晴らしいんじゃない、足りない部分は補い合えばいい」というような台詞(うろ覚えです)。これは技術面で叩かれることも多かったべにさんや、べにあーコンビ、引いては全てのタカラジェンヌへの小柳先生からの応援メッセージなのかなと思いました。
べにさんは本当に良い意味でも悪い意味でもクセの強い方だけども、そんなべにさんだったからこそこんなに面白い作品が生まれたんだよなぁ…と思うと、本当にありがとうございましたという気持ちで一杯です!我が強くて俺様な面もありつつも、情に厚くて気付けば沢山の人に囲まれて笑っている。そんなホンの姿とべにさんご本人が重なる、とても素敵なお役でしたね!

あ、あとサンケイリビング貸切公演の終演後インタビューで、「宝塚はけして敷居が高くない、ということを伝えたい。もっと近くでお客様に宝塚を楽しんでほしくて、ショーでの客席降りも多くしてもらってきました」というようなことをおっしゃっていたのを聞いて、自分の信念をきちっと貫いてきた方なのだなとも感じました。
退団後はどういう道に進まれるのかなぁ…分かりませんが、べにさんの新しい道にも笑顔が溢れていますように!!


☆アイリーン・チョウ@綺咲愛里

小柳先生の萌えツボが全部詰め込まれたようなキャラクターだなぁ…と思いながら観ていました(笑)
勝ち気で無鉄砲、腕っぷしも強いけど恋に落ちると可愛い面も見せる美少女(※料理はど下手)ってもう少年漫画の王道ヒロインキャラですよね!しかもビジュアルがピンクのロングヘアーて!!オリジナル作品なのに二次元から飛び出てきた感が凄い!!
最後の料理対決で着てきたコスチューム姿が完璧すぎて、あの服着こなせるあーちゃん(綺咲愛里)スゲェ~!!と心の中で拍手しましたわ。あのビジュアルは強い。
お芝居や歌の声がヘロヘロしているのがやっぱり残念ではあるんだけど…退団公演がウルトラハッピーエンドを迎えられるお役で良かったねぇと温かい気持ちになったので、もうその辺は考えないでおこう、うん(笑)


☆リー・ロンロン@礼真琴

ポスター画像の印象や「ホンを裏切る」という設定から、悪い奴なのかな?と思ってたらめっちゃヘタレキャラでとっても可愛かったwww
天才だけど気弱でへたれな眼鏡くんが、憧れの女性のために俺様キャラになって頑張る…んだけど、ふとした瞬間にへたれキャラな面が出てきてしまうというコミカルなキャラクターがすごく魅力的でしたね~!!キャラクターの変化で声色や歌い方をガラッと変えるところもさすがの巧みさでした。
ただ、ホンがべにさんと重なって見えたように、リーもこっちゃんと重なって見える部分はあって…「首席の優等生」であるが故の苦労とか悩みとか絶対あると思うから、舞台を観ていてこっちゃん自身が何だか心配になってきてしまって…。
なので食聖コンテストの後、ひっとん(舞空瞳)演じるクリスティーナが「元々の貴方が好きよ」というようなメッセージを伝えに来てくれるところを見て「良かった~!!!!!」と心から思いました!こっちゃんがこれからトップとして背負う様々な重荷を、一緒に背負って支え合う相手がひっとんで良かったなぁと。どちらも「何でもできちゃう人」だからこそ、分かり合える部分があればいいなってね。勝手に思っちゃったんですよね、へへっ。
こっとんコンビが、リーとクリスティーナのような素敵なコンビになりますように!星組の次期トップコンビに幸あれ~!!


☆クリスティーナ・チャン@舞空瞳

かっわいい!!!!!!!!!!!!!!!!!!(卒倒)
と、出てきた瞬間ハートを撃ち抜かれました…ああ~可愛い~可愛くて可憐で美しいよひっとん~!!!
クリスティーナとエクリプスは「SUPER MONKEY'S」がモデルなのかなぁ?雰囲気とかキャラクター設定とかアムロちゃんみたいだったし、その設定に負けない圧倒的な存在感を放つひっとんの凄さよ…つい目で追っちゃう華やかさがあるんですよねぇ。花組の「CASANOVA」で、娘役が集団で踊る場面が何回かあったんだけど、沢山娘役がいる中でつい目で追っちゃうのがひっとんでした。
食聖コンテストでのライブパフォーマンスシーンも良かったな~!!ノリノリの曲を聴きながら「何で私キンブレ振ってないんだろう!?アッここが宝塚だからだわ!!」と我に返りましたwいやでもあれは立ってキンブレ振りたい場面よね…(パラダイスプリンスの場面もだけど)
ひっとんは学年も若いし、組替えで来たことで反感を買うこともあるかもしれないけど、本当に素敵な娘役さんだと思うのでこれからのご活躍がとてもとても楽しみです…!星組で更に輝くひっとんが観られますように~!!


☆ニコラス@瀬央ゆりあ

ちゃ、チャラ~い!!小柳先生が大好き(なんじゃないかと思ってる)なチャラ男キャラだ~~!!!(笑)
てことで見た目もチャラければキャラもチャラめ、でも何だかんだ面倒見はよかったり、リーダーの役目もきちんとこなす愛されキャラって印象でした。そしてあのよく分からない髪色(紫?)が似合っちゃってるせおっち(瀬央ゆりあ)が凄い!!
アイリーンの髪色も凄いけど、ニコラスの髪色も凄いよな…なんつー派手で美しい従兄弟同士なんだwww
ニコラスを中心としたパラダイスプリンスはご当地アイドルってことで、クリスティーナ&エクリプスとは対照的なガムシャラ感があったのが良かったです。彼らのライブシーンもキンブレ振りたかったwww
せおっちはスラっと背が高くて遠目から見てもカッコいいし、目が大きくてお顔も端正だし、歌もすごく良くなってて「今めっちゃ伸びてます!!」て感じが伝わってくるスターだなぁと思いました。
これからどんなスターになっていかれるのか楽しみだな~!!

あと、華形ひかるさんのエリックが悪役かと思いきや結構良い奴だったり、インパクト絶大な汝鳥伶さんの牛魔王様が滅茶苦茶キュートだったり、朝水りょうさんのシェフ姿(と女の子を口説きまくってる姿)にときめいたりと、本当~に色んな要素を楽しめた公演でございました!!イェーイ!!

※余談ですが、一緒に観劇したオタ友に「今、朝水りょうさんが気になってて~あのフランス人シェフを演じてた方」と観劇後に話したら「ああ、ヘタリアのフランス兄ちゃんみたいだった人?」と言われて「わ、わかるwwwww」と吹き出しながらも滅茶苦茶腑に落ちたことを書いておきます。マジフランス兄ちゃんっぽくて素敵だったわwwww

※レビュー「Éclair Brillant」も滅茶苦茶良かったので感想を書きたかったのですが、ちょっと難しそうなので少しだけ下に書きます。

ツイッターにも書きましたが、クラシカルながら古臭さは全くなく、構成も振付も選曲も素晴らしく、とても上品で華やかな素晴らしいレビューでした!!特にこっちゃん&ひっとんのダンスシーンと、ボレロの場面、最後の黒燕尾の場面が最っっっっっ高!!!!!

こっちゃんとひっとんのダンスはとにかく美しく、軽やかで優雅。二人とも何でもできちゃう方々だけど、一番凄いのはやっぱりダンスなのかな…2人のシンクロぶりも凄かったし、空気が舞っている…て感じでした。こっとんコンビのデュエダンもめっちゃ楽しみだわ~!!

ボレロの場面は、2回目観劇時に2階席センターで観たんですが圧倒されました…本当に凄かった。衣装も舞台装置もシンプルなのに、ボレロの音楽が持つ力強さと、星組生の放つ圧倒的なエネルギーと団結力が合わさって、ダイナミックで華やかな素晴らしい場面になっていました。お金と時間とチケットさえあればボレロの場面観るために何回でも通いたいと思ったくらいに!!(残念ながらどれもないwww)

黒燕尾の場面もね、「風林火山」の三味線バージョンがも~凄くカッコ良くて…ああいう和風アレンジ曲で黒燕尾群舞ってのも素敵だなと思ったし、べにさんが劇場の床をそっと撫でる振付は泣けちゃった…;;;

そして最後のデュエットダンス。すっごいイチャイチャしてるぅ~wwwと思いながら見てましたが、銀橋であーちゃんを抱きしめたべにさんが「あ~幸せ~」という感じでフッと笑う姿を見て、素敵なトップコンビだなぁと胸が温かくなりました。
べにさん、あーちゃん、改めましてご卒業おめでとうございます!!東京楽のその日まで、二人のハッピーオーラで劇場が満たされますように!!

2019年9月8日

ここが分からんダーイシ脚本 雪組「壬生義士伝編」

「壬生義士伝」を映画版→宝塚版→原作小説の順に履修した結果すっかり原作ファンになり、宝塚版のダーイシ(石田昌也先生)脚本にモヤモヤして仕方なくなったので発散するために書いた文章です。
宝塚版で一番モヤモヤした「淀川決戦で貫一郎が特攻する場面」については先に書きましたが(こちらの記事)それ以外にも「なんでやねん!?」と突っ込みたくなる描写が多かったので…「ここが分からんダーイシ脚本」として記事にしました。大好きな雪組の舞台を心から楽しみ切れず、モヤモヤが残ってしまった自分自身への供養でございます。南無。
あ、ちなみに原作小説のネタバレを多大に含みますのでこれから読むつもりという方はご注意くださいませ!!

まず、基礎知識として原作小説の構造について。

●吉村貫一郎の独白と、貫一郎のことを知る複数の人物による回想パートとが交互に紡がれ、過去と現在二つの時間軸でそれぞれストーリーが進行する形式になっている。
●貫一郎の独白は鳥羽伏見の戦いの後、南部藩蔵屋敷に辿り着いた所から彼が命を絶つまでの時間軸。
●回想パートの時代は明治維新から50年後(大正5年頃)。吉村貫一郎のことを調べている新聞記者が、幕末の彼を知る人物に会いに行ったり手紙をやり取りして取材するというもの。取材対象となった人物(各パートの語り手)は下記の通り。

・居酒屋「角屋」の店主(元新選組隊士)
・桜庭弥之助(大野千秋の友人で、南部藩時代の貫一郎の教え子)
・池田七三郎(元新選組隊士。縣千君が演じた池波六三郎とほぼ同じ人物)
・斎藤一
・大野千秋
・佐助
・吉村貫一郎の次男
(・大野次郎右衛門)

大野次郎右衛門のパートはジロエが直接語るわけではなく、彼が残した手紙が本文になっています。
とりあえず、宝塚版では明治維新から18年後に当時を振り返っているのに対し、原作では50年経ってから振り返っているというのだけ頭の片隅に置いておいてください。

んでは本題の「ここが分からんダーイシ脚本」について、

①鹿鳴館で「斎藤一」と派手に紹介されることについて
②谷三十郎殺しの件で斎藤一から金を受け取った貫一郎の描写について
③大野次郎右衛門の最期について
④鹿鳴館チームのことも改めて物申したい

の4点を言及していくよ!


①鹿鳴館で「斎藤一」と派手に紹介されることについて

まず大前提として、史実の斎藤一は明治時代には藤田五郎と改名しています。
以前雪組で上演した「るろうに剣心」に登場する斎藤一も、初登場時に「今は藤田五郎と名乗っている」と話していますよね(まぁ、劇中で誰も藤田なんて呼んでないけど…)
改名の理由は色々あるでしょうが…普通に考えれば、新選組が新政府側から恨まれまくってるからでしょうね。何しろ薩長の維新志士を殺しまくってるわけだし、元新選組なんてことが知れたらいつ何時「同志の仇!!」と命を狙われるか分からない。実際、原作では戊辰戦争後に新政府軍が新選組の生き残りを探していた様子も描かれています。
「壬生義士伝」の斎藤一はあの性格なので「別に仇討ちなど恐れていなかった」なんて言ってますが、それはさておき。

原作の語り手として登場する元新選組隊士は、明治維新から50年経っても未だに「仇討ちされるのでは」という懸念を抱いていたりします。皆もうすっかりおじいちゃんになっているのに、です。
それくらい新政府軍と旧幕府軍の争いははお互いに禍根を残したし、旧幕府側だった人間は非常に肩身の狭い思いをして明治の世を生きていた…ということが原作小説では克明に描かれているんですね。

つまり薩長出身者が支配する明治時代に、それも明治18年のまだまだ幕末の志士たちが元気な頃の東京で「元新選組の」と大声で名乗るなんておかしくないか?ってことです。
劇中で池波君が暴漢に名乗りをあげたかと斎藤に尋ねますが、「あげるわけねーだろ!!」と観劇の度に心の中で突っ込んでおりました…(笑)
たとえば、

暴漢「つ、強い!てめぇ何者だ!?」
斎藤「警視庁警部補、藤田五郎だ」
暴漢「藤田…?もしかして元新選組三番隊組長、斎藤一って噂の!?」
斎藤「噂が本当かどうか、試してみるか?」
暴漢「ひっ…!くそ、引くぞ!!」

と暴漢側に語らせて、その後みつが「元新選組の斎藤一様というのは本当ですか?」と話しかければ、時代背景に沿いつつ話が進められたのでは。
何でこんな細かいことを気にするかと言うと、先述の通り旧幕府側の人間が明治になってどんな罰や差別を受けたのかということも原作では語られているからです。そして彼らが、どれだけ歯を食いしばって困難を乗り越えていったのかということも。
それらは全て、原作者の浅田次郎先生が綿密な取材の上で書かれたことでしょう。そうして長い長い時間をかけて大切に描かれた原作の世界観を軽視するような表現が、私はどうにも我慢ならんのでした。
原作には!最大限の敬意を!!払ってくださいよ!!!


②谷三十郎殺しの件で斎藤一から金を受け取った貫一郎の描写について

これはねぇ…原作ファンからしたら淀川決戦の特攻シーンと同じくらい怒り心頭の描写だったのではないかと思います。
谷三十郎を殺したのが斎藤一だと見破った貫一郎が彼から20両の賂(まいない)を受け取る場面、私が観劇した時は毎回くすくす笑いが起こっていました。それはやはり、貫一郎の「20両で、よがんす」でそれまでの緊張感が一気に緩むから。ルサンクに掲載されている脚本にも、貫一郎が「ニヤリ」として20両を要求すると書いてあるのでそういう意図を狙った演出だったんでしょう。
更にその後、沖田・永倉・原田がワイワイ出てきてアドリブもあったことで「ちょっと笑える場面」みたいな印象が強くなってました。
が。
この場面、原作の斎藤一による回想では次のように描かれています。

 おなごのように長いまつげをしばたかせながら、吉村は足元に目を落とし、いきなり意想外のことを呟いた。
 「ならば斎藤先生、わしに銭こば下んせ」
 とな。
 (中略)卑しい言葉を口にしたとたん、奴は口中に残った毒を噛み潰すかのようにきつく目をつむり、唇を引き結んだのじゃ。眦には涙すらうかべておった。
 奴は意に添わぬつらい言葉を吐いたのじゃろう。
 (中略)ただわしが言えるのは、あの吉村貫一郎という侍は決して本性からの守銭奴ではなかった。銭のためなら何でもするという類いの、卑しい侍ではなかった。
 【浅田次郎「壬生義士伝・下巻」2002年 文芸春秋刊 より引用】

…おわかり頂けただろうか。
全っっ然違いますよね!!ニヤリと笑うどころか、したくもない強請りをするのが辛くて泣いてるんですよ貫一郎は!!
原作の貫一郎は「人を斬るのが本当は辛くて仕方なかった」という独白もしているんですが、斎藤は「吉村の人柄からして、強請りは人斬りより辛かっただろう」とも語っています。
それくらい性根が優しくて、悪いことなどできない真っすぐな人間が「家族を養う」という義を貫くために強請りまでしていた…という何とも切なく苦しい場面なんです。

それを何で!!泣くほど辛い思いをしていた貫一郎を!!「ニヤリ」とさせたんだ、ダーイシー!!??

もう本っ当にダーイシの感性が私には分からない…何を伝えたくてニヤリとさせたの?何でちょっと笑えるシーンみたいにしちゃったの??
沖田・永倉・原田のワチャワチャと土方さんの切れ者ぶりの芝居をさせたかったにしてもさ、貫一郎をニヤニヤさせる必要はないじゃない?
ってことでこんなんどうよ?な妄想代替案(笑)ですが、

貫一郎が言いにくそうにお金を要求する
→斎藤は驚くが、貫一郎の辛そうな様子を見て「…持っていけ、20両ある」と渡す
→「おもさげながんす」と金を受け取って走り去る貫一郎、そこへ沖田たちがやってきて「吉村さんにはお見通しだったんですね。中々したたかな人だなぁ」と軽口を言う
→斎藤が「そんな器用な奴じゃねぇだろうよ」と貫一郎をかばうようなことを言い、ちょっと驚く沖田。バツが悪くなって「…しかし20両は多すぎた、お前ら5両ずつ出せ!」と金を要求する斎藤。

て感じ…いかがでしょうか。
そこからワチャワチャ芝居が始まるなら、貫一郎が根っからの守銭奴ではないことを伝えつつ、斎藤・沖田・土方のやり取りを楽しめる場面にもできたんじゃないかな~なんて。
しかし浅田次郎先生はこの場面をどういう気持ちでご覧になってたのかなと思うと…うっ、頭が痛い。


③大野次郎右衛門の最期について

宝塚版では秋田征伐の最中に、鉄砲で撃たれて死んでしまったジロエくん。
1回目の観劇の時は「貫一に続いてジロエまで死んでしまうなんて;;;;」とただ悲しくて泣きましたが、原作を読んでから臨んだ2回目の観劇時には「なんでここで殺しちゃうの!?;;;;」と泣きながら怒りが爆発しました(笑)
というのも、原作のジロエは秋田征伐戦後も生き残って色々と大事な仕事をしているからです。

そもそも、何でジロエが貫一郎に切腹を申し付けなくてはならなかったのか…舞台だけご覧になった方ってちゃんと分かりましたかね??
一応「南部二十万石と壬生狼一匹を秤には掛けられねぇ」って台詞がありましたが、あの時点で南部藩は幕府側につくか新政府側につくかをまだ決めていませんでした。天下がどう転ぶか分からないので、中立の立場をとって情勢を見極めようとしていたんですね。おまけに南部藩蔵屋敷は大阪にあるので、本国盛岡からは遠く離れた陸の孤島状態。そこで下手なことをして南部藩が攻められるようなことがあっては一大事ってわけです。
その難しいタイミングで、バリバリ幕府側である新選組隊士が南部藩に助けを求めてきた。これを匿ったことが薩長に知れたら、南部藩は幕府についたと見なされて攻められる可能性があるわけです(ちなみに南部藩蔵屋敷のすぐ隣は彦根藩蔵屋敷で、彦根藩は薩長側。貫一郎の騒ぎが大きくなったら非常~にヤバい状況です)
だからこそジロエは、無二の親友である貫一に切腹を命じることしかできなかった。どんなに貫一を助けたくても、彼の立場がそれを許してくれなかったんですね。は~切ない…。

そして貫一郎切腹の後、ジロエは南部藩に呼び戻されます。
幕府につくか薩長につくかで南部藩内でも意見が割れたため、大阪勤めで情勢に詳しいジロエに意見を求めようとなったんです。そして多くの人は「御家大事」のジロエのこと、南部を守るために薩長につくだろうと思っていました。ところが南部藩に戻ったジロエが「薩長は断じて官軍にあらず」と進言したため、薩長に与した秋田を攻めることになった…というのが話の流れです。
この時、何故ジロエが南部を危険に晒してでも薩長と敵対する道を選んだのか。ジロエ本人の口からは明言されていませんが(※)貫一郎の死と無関係ではないでしょう。ジロエは「吉村貫一郎こそ真の南部武士である」と心から貫一郎を敬愛し、彼がいないと生きて行けないというくらい大切に思っていた。そんな彼を死に追いやった自分が許せないのと同じくらい、薩長が憎かったでしょうからね…。
(※9/11追記:原作を読み返したら大野次郎右衛門の手紙の中で秋田攻めについての記述もありました、確認不足ですみません!この解釈がまるっきり的外れというわけではないと思うので、記述はそのままにしておきます)

秋田征伐では先陣を切って戦ったジロエですが、無茶な戦い方をした割には傷一つ負わずに生き残った、と原作にはあります。
生き残ったとはいえ、賊軍の将として明治2年には処刑されてしまうのですが…その処刑されるまでの間、ジロエは藩の仕事以外に大事な仕事を二つしています。
一つは、自分の死後、息子千秋の後ろ盾となってくれる人を探すこと。
そしてもう一つは、遺された貫一郎の家族の面倒をみること。

戊辰戦争後、南部藩は官軍に歯向かった罪で多額の賠償金を支払わなくてはならなくなります。それにより元々苦しかった財政はより悲惨なことになり、薩長と戦う道を選んだジロエの評判は地の底まで落ちました。千秋を始め、残された家族はとても南部藩にはいられなくなるだろう。そう考えたジロエは、千秋に「この手紙の人物を尋ねよ」といくつかの手紙を渡します。その手紙を頼りに東京に向かった千秋は、ジロエと親交のあった元南部藩士の医者と知り合い、医学の道を進んでいくことになります。

もう一つ、貫一郎の家族について。長男嘉一郎は秋田征伐に参戦、長女みつは千秋が面倒を看る、妻しづは病で臥せっている…と知ったジロエが一番心配したのは、貫一郎がついぞ会えなかった次男坊のことでした。
①の斎藤一の項でも書いた通り、新政府軍は新選組の生き残りを探していました。それは吉村貫一郎とその家族もその対象だったのです。「真の南部武士」だった貫一の血を絶やしてはならない。そう考えたジロエは、まだ幼い次男坊を佐助に頼んで越後に逃がすのです。それは大野次郎右衛門の最後の仕事でもありました。
ちなみにこの次男坊、原作小説ではきちんと名前が出てきます。その名前が明かされるところはもう…胸がぐっと締め付けられて、切なさと愛おしさで世界が満たされるような感覚になる名場面ですので、未読の方も是非原作を読んで頂ければ幸いです。

つまりですね、ジロエが秋田征伐の時に死んでしまったら千秋は医者になれなかったろうし、次男坊も札幌の農学校には行けなかっただろうってことです。
どう考えてもあの場面でジロエを殺す必要はなくて、戦に向かう嘉一郎を見送った後、銀橋で歌を歌ってそのまま退場…でも良かったはず。
そして鹿鳴館の時代に戻って、千秋に「父は秋田征伐に参加した後、賊軍の首魁として処刑されました。でも、父が遺した手紙の紹介で南部藩出身の医師と出会い、私は医学の道を志したのです」と語らせれば話は綺麗に繋がるんですよ。

何で!!あそこで!!ジロエを殺したの!!!???

ほんっと分からん…淀川決戦で貫一郎に無駄死にルートを歩ませた上に、ジロエまで勝手に殺しちゃうの本当に分からん…。
そのくせ「吉村さんの想いは、いまも受け継がれているのね…」なんて台詞を唐突に突っ込んでくるデリカシーのなさ。貫一郎の想いを受け継がせるためには!!ジロエが必要でしょーが!!??
原作を読んでジロエくん強火担(笑)になった私が一番ムカムカしたのはここだったので、長々と書いてしまいました…おもさげながんす。


④鹿鳴館チームのことも改めて物申したい

やっぱさ~鹿鳴館チームの、特に女性陣の描写がひどくない??
ビショップ夫人の「漫画的な外国人キャラ」扱い(ビショップ夫人は実在するイギリス人旅行作家で、あの時代に世界中を旅して旅行記を残した凄い女性です)
みつがいる前で「貫一郎の見合いの話をして」とせがむ松本良順の妻・登喜(父に会えず寂しい思いをしていた娘に聞かせる話か?と思うし、別に楽しい話というわけでもない)
仲間が止めるのも聞かず一人で敵に突っ込んだのに、南部藩に命乞いをした父を「英雄だったのか?」とか言い出しちゃうみつ(その後の「英雄ではない、新選組の良心だった」という斎藤の台詞を言わせるためだけの台詞にしか見えない)
舞台の進行役として鹿鳴館チームを使うのはいいにしても、何ていうの…話を進めるのを優先しすぎてて、キャラクターの人物造形が雑すぎると思うんですよね。しかもその進めたい話っていうのもダーイシの主観に基づいているもので、原作の流れはさらっと無視しちゃってたりするという…アチャー…。

一番ドン引きしたのは、最後の最後のビショップ夫人と鍋島夫人の会話。
ビショップ夫人が「政府高官の奥方は、元芸者が大勢いる」と話したら、芸者や女学生が「玉の輿!」と俄然張り切ったというところ。
これホントいらなくない!?何でこんな品のない台詞を勝手にぶっこんだの!?
雪組生の大熱演で脚本のアラを一瞬忘れちゃうくらい感動的な舞台だったのに、この余計な台詞で一気に熱が冷めちゃったんですよね…。

たしかに、明治時代に女性が良い暮らしをしようと思ったらお金持ちと結婚するくらいしかなかったとは思いますよ。
でもさ、それを別にこのお芝居の流れで言う必要ってないよね!?
観客は貫一郎の壮絶な最期にもう涙涙で、妻子のために必死に生きた男の生きざまに胸を打たれてるわけですよ。その余韻に浸ってる最中、いきなり「まぁ女は結婚して成り上がるくらいしかないけどね!」て言われたらどう思います?マジドン引きだし「空気読め!!」って話ですわ。
しかもこれをビショップ夫人に言わせるのがまたさぁ…あの時代に世界中を旅するくらい気骨のある女性が、玉の輿を勧めると本気で思ってんの!?

まぁダーイシは元々女性蔑視的な台詞を書いたり、「すみれコードって知ってる?」と問い詰めたくなるくらい品のない台詞を書いたりで物議を醸しがちな演出家みたいですが…。
宝塚を支えているファンの多くは女性であること。
女性蔑視やセクハラ的な発言が大問題に発展する時代であること。
そういう意識を持って、作品と向き合って欲しいなぁと思ったのでした。
つい悪いところばっかり書いちゃったけど、ジロエとひさの描き方とか、良いと思ったころも勿論ありました。
でもねぇ…やっぱり総合的には、ひっどい脚本だったと思うよ。

他にも突っ込みたいところはあったんですが、ここまで書いたら疲れたのでこの辺で~!
長文を読んで下さった方、どうもありがとうございました!

2019年9月5日

雪組「壬生義士伝」で、貫一郎は何故一人で特攻したのかって話

※ヅカ版「壬生義士伝」の貫一郎特攻シーンにモヤモヤが止まらなかったので、考えをまとめたくて書きました。
あくまで個人の解釈なので、同じようにモヤモヤした方は原作を読まれることをお勧めします…。

最初の感想でも書きましたが、鳥羽伏見の戦いでの貫一郎の特攻シーンは何回見てもひっかかりました。
で、原作を読んで改めて思ったんだけどあの描き方ではやっぱりダメだと思う。
この場面、観ていて「何で?」と思った方は多いと思うんですよね…劇場で観た時もライビュで観た時も、幕間に「あの場面、何で貫一郎は一人で突っ込んでったの?」と話す声があちこちから聞こえてきたので(その声に「だよねぇ~」と一人で頷いてた私…w)

何でひっかかるかと言えば、土方さんが「一旦大阪城に退いて態勢を立て直す」と生き延びる提案をしたのに、貫一郎は「勝つための戦ではござらん」と拒んで敵に特攻してしまったから。
「死にたくないから人を斬っている」「人を斬るのは家族を養うため」という、それまで描かれていた貫一郎の「家族への義」がここでいきなりひっくり返されちゃうわけです。どう考えても一人で突っ込んだら死ぬ可能性が高いんだから、土方さんの「ここで無理に戦っても無駄死にになるから一旦退こう」という意見の方が、貫一郎の義には沿うはずなんですよね。
じゃあ何でそんなことになっちゃったのか。
それは原作の流れを中途半端に変えてしまったからだと思います。

この淀川決戦の場面、原作の土方さんは「一旦大阪城まで退こう」なんて言いません。
逆に「一歩も退くな。退く者は斬る!」と錦の御旗にひるんだ隊士たちを鼓舞しています。ただ、やはり天皇の象徴である錦の御旗の威力は絶大で、多くの隊士が戦意喪失してしまった(新選組も尊皇派だからね)
そんな中、堂々と名乗りを上げて新政府軍に立ち向かっていったのが吉村寛一郎。
自分も尊皇の民であるから天皇様に弓引くつもりはない。ただ新選組として、一人の侍として、薩摩とは戦わねばならない。
彼の体を動かしていたのは、そんな武士としての矜持だったのではないかと思います。

そして命からがら淀川決戦を生き延びた貫一郎は、同じく生き残った新選組の仲間から「将軍様も会津公も、船で江戸へ落ちられたらしい。新選組は大阪城に籠って戦うぞ」と告げられます。
ここで貫一郎は仲間たちと大阪城に行くのを拒むんですね。なぜなら「幕府は散々に敗けて、将軍様も会津公も逃げ出したのに、一体何のために死なねばならないのか」と思ったから。貫一郎にしてみたら、幕府にも会津藩にも恩義はあれども自分の命を捨てるほどの忠義心はない。折角生き延びたのに、わざわざ無駄死にしたくないと新選組を離脱し、何とか故郷の盛岡へ帰れないかと考えるわけです。

つまり淀川決戦で貫一郎が特攻したのは、まだ侍として戦う理由があったから。
そして大阪城行きを拒んだのは、もう戦う理由もないのに無駄死にしたくないと思ったから。
そう考えると、貫一郎の言動に矛盾はないと思うんですよね。

原作では「新選組と大阪城に行く=死に戦に赴く」ことであるのに、舞台では「新選組と大阪城に行く=生きるために一旦退く」という真逆の意味ににすり替えられてしまった。その上、大阪城に行くかどうかの選択も決戦後ではなく決戦前に変更されている。
それなのに、貫一郎が淀川決戦に挑む時の口上は原作のままだし、「これは勝つための戦ではなく、人として忠義を尽くすための戦い」とか言い出す始末。これじゃ話がちぐはぐになるはずよね…突然キャラが変わっちゃってるんだもん。

そもそも土方さんに「一旦大阪城まで退こう」なんて、原作と全く違うこと言わせるからおかしくなっちゃってるんだよなぁ…。
たしかにね、皆が逃げようとしている時に一人敵に立ち向かっていくヒーローの姿がカッコ良く見えることはありますよ。
でもそんなとってつけたようなカッコ良さのために、キャラクターの核になる部分を変えちゃダメじゃない!?(いや、そういう理由で変えたかどうかは分からないけど!!)
吉村貫一郎は徹頭徹尾、家族のために生きた男なんですよ。貫一郎の根底には「武士として最も大事にすべきことは、弱い立場の百姓や民草を守り、ひいては己の妻子を守ることである」という信念があった。そして自分が真に忠義立てするのは南部藩でも幕府でも会津藩でもなく、家族であると。それこそが自分の義であると考えていたはずなんです。
だからこそ彼は、南部藩蔵屋敷で帰参を願い出たんですよね。生き恥をさらしてでも、どうにか生き延びて家族の元へ帰りたいと。

それが舞台では「勝つための戦ではない」と特攻したのに、生き残ったら南部藩に命乞いをするという何だかおかしな展開に…いやいや、死を覚悟して戦に臨んだ風だったのに、あっさり命乞いしちゃったら彼の「忠義」はどうなっちゃうんだよ!?「忠義に死ぬことこそ義」みたいな雰囲気だったじゃん!?
淀川決戦を変にかっこつけた特攻シーンにしてしまったせいで、物語の核である貫一郎の「義」がブレてしまった。
これが宝塚版「壬生義士伝」(というかダーイシ)の一番やらかしちゃったポイントかもしれない…それに比べたら鹿鳴館チームのあれこれとかささいな問題に思えてきたわ(笑)

しかしこうして書いてて、こんなグダグダの脚本をあんなに良いお芝居に昇華した雪組は本当に凄いな~とも改めて思ったのでした。