2020年1月13日

雪組「ONCE UPON A TIME IN AMERICA」の脚本にガッカリした話

※あくまで個人の感想です!!!そして原作映画のネタバレを含むよ!!!


2019年1月11日~12日にかけて雪組「ONCE UPON A TIME IN AMERICA」を観劇して参りました!
も~楽しみすぎて東京公演まで待ちきれず、9年ぶりくらいにムラまで馳せ参じましたよ!!久し振りの宝塚大劇場、とっても楽しかったです!!
土日は貸切公演が多いので、できるだけ多く観るならここしかなかったんですよねぇ…友人の協力もあり、無事3回観劇できて僥倖でございました。

で、感想なんですが…。
雪組ファンの自分としては滅茶苦茶楽しめたので大歓喜している一方で、原作映画ファンの自分としては怒りを通り越して絶望し、ひたすら「何でじゃー!?」とちゃぶ台をひっくり返し続けてる感じです。そのせいで観劇後は全然感想がまとまらなかったし、色々考えすぎて夜も眠れなかったわ!!(笑)
とりあえず、雪組ファンとして大歓喜!の部分は主にキャストに対する感想になるので、作品自体に感じたことを先に書こうと思います。
さっき書いた通り原作ファンとしては絶望したので、またダメ出し感想になると思いますがそれでもいいよって方だけどうぞ!長くなりますが!!
雪組への感想を見たいって方はキャスト別感想だけ読んで頂ければ幸いです!!後日書くので!!


さて。
原作のある作品を舞台化、特に宝塚歌劇として上演する場合、様々な困難や制約があることはわたくしも存じております。
元々の表現媒体が違うので物語や演出を変える必要は出てくるし、宝塚の場合スターシステムの関係で原作のキャラクター設定を変えたり、すみれコードに合わせて表現をマイルドにしたり…。その結果、原作とは大分趣の異なる作品に仕上がることもあるけれども、原作の良さを活かしたアレンジにより「宝塚版」として成功する例も多いと思います。
で、私の中でその宝塚版への昇華が上手い方といえばイケコこと小池修一郎先生でした。
「ポーの一族」や「るろうに剣心」は原作ファンとしても「ありがとうイケコ!!!」とお礼を申しあげたい出来でしたし、「エリザベート」や「スカーレットピンパーネル」はオリジナルに近いだろう外部上演版と比べてみると「宝塚版」としてとても上手くアレンジされていると感じました。
原作の面白さは踏襲しつつ、宝塚版としてよりドラマティックに、ロマンティックな作品に仕上げて下さる…イケコへのそんな信頼があったからこそ、先に原作映画を予習しても大丈夫だろうと思っていたわけです(そして軽い気持ちで原作映画を見た私が、どっぷりハマって大分ヤバくなっていたのは過去記事「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカについて考える①~③」をご参照くださいw)
おまけにイケコ先生が長年舞台化を夢見ていた大好きな映画だと言うじゃないですか!それを充実期を迎えている今の雪組で上演するっていうんだからメチャメチャ期待が膨らんじゃうじゃないですか!!

だからも~楽しみ要素がハチャメチャに大きかった分、今回の脚本・演出にはマジでガッカリしちゃったのよ、イケコ!!!!!!!!!!

以上です。
はー、言葉にして吐き出したらスッキリした!(笑)
ガッカリポイントは色々あるんだけど、大きくは

●ヌードルスとマックスの根本的なキャラクター像の変更
●デボラの心変わり
●アメリカという国の描き方

の3つかな~。
もうモヤモヤが止まらないからうだうだ書くぜ私は!!ここは私の感想ブログじゃい!!!思ったことを自由に書くわいワハハ!!!


●ヌードルスとマックスの根本的なキャラクター像の変更について

まずヌードルスとマックスについて。
ここはさ~…ホンッッッッッッッットに色んな意味で楽しみにしていたのでガッカリ感がマジ半端なかったっす。絶望っす。
1回目の観劇後は「はっ?????何でこうなったの??????」て疑問符しか出てこなかったもん…。

ヌードルスは元々寡黙で、感情の起伏をあまり表に出さない人物。
カッとなると自制が効かなくなる面はあるものの、基本的に慎重派で高望みしないし、争いも好まないタイプ。

なのでそもそも「いつか皇帝になりたい」なんて大きな野望を抱く人物ではないんですよねー!!!???

ヅカ版で子供時代のヌードルスとデボラが「いつか皇帝と皇后になりたい」と夢を語り合う場面、とても微笑ましくて可愛くてキュンキュンしたけど、「皇帝になりたい」なんて言いだした時点で「あっ、この人はもうヌードルスじゃないな」って思いました。
ヌードルスにも貧しい生活から抜け出したい気持ちはあっただろうけど、世界の頂点を目指すような野心家ではない。だからこそ超野心家のマックスとは反りが合わなくなっていったわけだから、このキャラ変更でもうラストシーンの面白さは半減って感じでした。原作映画ではヌードルスとマックスの違いが際立つからこその名場面だったのにね。

それでも、刑務所から戻ってきた時にヌードルスの野心家キャラが無くなっていたらまだ良かったんですけどねぇ…何で宝石強盗に乗り気で参加しているのか謎だったし、依頼主のジョーを裏切る場面でも映画版ほどマックスを強く糾弾することもなく(まぁ裏切りの前提条件自体変更されてたわけだけど…)
生きるためにコソ泥程度の悪事はするけれども、大金を奪ったり、人を平気で裏切ったりという悪には抵抗を感じるヌードルスのピュアな面や葛藤が無くなってたのは本当にガッカリしたな…。大人になりきれないピュアさがヌードルスの魅力だと思うし、その葛藤に苦しむだいもん(望海風斗)を私は拝みたかったよ~。

ヅカ版だと、ヌードルスは大金を貯めるためなら犯罪にも積極的に身を投じていく印象でした。イケイケドンドンなマックスのやり方にもあまり抵抗がなさそうな感じがしたなぁ。それは全て「皇帝」になってデボラを手に入れるためだから、まぁ愛のためではあるんだけれども…ギャングをやめて欲しいと願うデボラに、ギャング業で稼いだ金を平気で貢ぐヌードルスって魅力的かなぁ?そこに葛藤はなかったのだろーか?本当にデボラを手に入れたいなら、薔薇の部屋やティアラを用意するよりもそのお金で真っ当な事業を始めた方がよかったんじゃないの??

ヌードルスがギャング業に乗り気かそうでないかとでは、デボラの「足を洗って欲しい」という訴えへの葛藤が全然違うと思うんですよ。
映画のヌードルスはマックスの強引なやり方が自分には合わないと感じていたけれども、他に生きる術を知らないのでギャングをやめることもできないでいた。そこへデボラが「ギャングのあなたとは付き合えない」とNOを突きつけることでヌードルスの中に葛藤が生まれ、ドラマも生まれたわけです。
イケコは何でヌードルスを中途半端に野心家っぽくしちゃったのだろう…同じ貧しい境遇で育ったマックスやデボラたちのように大きな夢に突き進めなかったからこそ、ヌードルスの哀しみや虚しさは際立ったのに。


そして更に更に心底ガッカリしたのがマックスのキャラ変ですよ……はー………ため息が深い。
原作ワンスの一番の見どころは、最後の最後、ヌードルスが殺してしまったと思っていたマックスと再会する場面だと思ってます。
ここでマックスが、最初から自分の死を偽装して別人になりすますつもりだったこと、ヌードルスの密告すら彼の策略の内だったこと、「親友を救おうとしたはずが殺してしまった」という罪悪感を敢えてヌードルスに与えたこと、そして彼から金も女も奪ったことを告白する。
マックスはヌードルスを手ひどく裏切ったからこそ、他の人間に始末される前に彼に真実を打ち明け、自分に復讐するよう仕向けた。そして全てを知ったヌードルスはマックスの裏切りにショックを受けながらも、彼との思い出を大切にすることを選び、殺しの依頼は断った。
この時のマックスの「これ(俺を殺さないこと)がお前の復讐なのか?」という言葉に対し、「違う、俺の考え方だ」と首を振るヌードルスの答えが何とも切なく、哀愁を感じる名場面です。
マックスを裏切ったと思っていたヌードルスの方こそが、実はマックスに裏切られていた。
でもマックスの中にもヌードルスとの友情はずっと生きているんですよね。その象徴が、酔っ払いから奪った懐中時計。二人の出会いのきっかけとなった懐中時計を、マックスはヌードルスを裏切ってからもずっと大切に使い続けていた。そしてヌードルスもそれに気付いて、何とも言えない切ない表情を浮かべるという…。
お互いに裏切りながらも、確かな友情で結ばれてもいた2人の人間ドラマこそがこの作品の真骨頂…と思っていたのに。のに。


何で!!マックスはたまたま生き残っただけって話になっちゃったのーーー!!??


もうさー…ヅカ版でキャロルが「マックスが酔っぱらっていつか銀行を襲撃するって話してた」て言い始めたところで嫌な予感はしたんだけどさー…まさかマックスが本気で連邦準備銀行を襲撃する愚か者にされてしまうとは思いませんでしたよ…!!しかもダイナマイトで扉を爆破するって何!?馬鹿か!?馬鹿なのか!?「オーシャンズ11」だってそんな雑な金庫破りしなかったでしょ!!??アメリカの連邦準備銀行って日本で言えば日本銀行よ~~~!!!???
ホント何でだよイケコ~!!マックスはそんな馬鹿でも無鉄砲な人間でもないでしょ~!!??

一応説明すると、映画版のマックスは禁酒法がいずれ終わることは予見していて、その後のビジネスにも当たりをつけてました(ジミーと裏で手を組んでの運送業)
ただそれをヌードルスに反対されて、じゃあ連邦準備銀行を襲おうと言い始めるんです。4人ばかしの小規模ギャングで中央銀行を襲撃しようだなんて、どう考えても正気の沙汰じゃないですよね。
で、実際マックスはこれを本気で言ってたわけではなくて、実は裏で自分の死亡偽装を画策しており、ヌードルスの密告に合わせてトラック事故を起こして見事に偽装を成功させ、ロッカーの共有財産も奪い去ります。
そしてマックスはベイリーと名を変えて政財界で大成功し、ヌードルスは親友を殺してしまった罪悪感だけを抱えてNYを離れて身を隠した…という流れ。
まぁ細かく言えばマックス一人の力でここまでできたわけではないんだけど、悪事に関してはマックスがヌードルスの一枚も二枚も上手の賢い人物だったことは確かです。

それがまぁヅカ版では、無謀すぎる銀行強盗計画を本気で実行したら爆発事故に巻きこまれ、たまたま生き延びたのでジミーに助けを求め、そのせいで最終的にはジミーにやり込められるというただの小悪党に…悲しい…私が見たかったのはそんな小物のマックスじゃないよ…。
ベイリーになったのも保険証が必要だったからってそんな…なんつーちんけな理由だよ…!?
まぁマックスがそんな暴挙に走ったのはお金に困ってたからってことにされてたけど、それもイケコが勝手につけた理由だしさぁ…原作のマックスはやり手だから不動産投資に失敗して資金の焦げ付きなんて出さないよぉ…。

何より、マックスこそがヌードルスを裏切っていたという重大なエピソードを変えてしまったせいで最後の再会から決別への流れが全然面白くないし緊迫感もない!!!!!

まず、ジミーがマックスに死を迫って銃を置いていくのはまぁいいとして、その銃を丁度良いとばかりにヌードルスに渡そうとするのおかしくない?ヌードルスに殺して欲しかったのなら自前の銃を用意しておくもんでしょ!?何でたまたまジミーが置いてった銃を渡すのさ!?
このヌードルスに急いで銃を渡すところ、マックスがより一層愚かに見えるからマジで変えて欲しい…。

あと何でマックスがヌードルスに殺されたがったのかも分からないんですよね。ヅカ版だと裏切ったのはヌードルスだけだから、マックスの方にこそ密告され裏切られたことへの恨みがあるのでは?生き延びたことをヌードルスに25年も黙っていた理由もよく分からないし…(デボラとの関係があるから言い出しづらかったのかもだけど、再会したのは10年前と言ってたし、それまでの15年は何してたんだよって思う)
それをいきなり25年経って呼び出して、「生きてたことを黙ってて悪かった、殺してくれ」と頼むのも変だし、断られて「俺を見捨てるのか!!」とすがるのも全然意味が分からない…見捨てるんじゃねーよ、ホントにヌードルスにはマックスを殺す動機がないんだよ…だって映画みたいに裏切られてないんだもん…むしろ「あの時は裏切って悪かった。俺のせいでやけどを負わせた」って謝らなきゃいけないのはヌードルスの方じゃないの…!?
最後の「何もしてやれないが、諦めるなよ」というヌードルスの無責任な励ましもよく分からんし、細かいことを言えば初めてやって来た屋敷で「裏口から帰るよ」と教えられてもいない裏口から出てくのも分からん…何で裏口知ってるんだよヌードルス…。

マックスをキャラ変してしまったせいで色々と話の辻褄が合わないのに、場面の流れは映画通りにされてしまったせいで名場面が珍場面にされてしまった印象でした。
ホント何でなんだイケコよぉぉ;;;;;;;


あとこれは本当に分からないんだけど、純粋にストーリーとしてヅカ版のワンスって面白いですか…?
私はどうも原作との違いに違和感ばかり感じてしまうので、ヅカ版が物語として面白いのかつまんないのかもう分からんのよねぇ。
映画版で面白く感じたのは、マックスが実は生きていたという真相に至るまでの経過と、ヌードルスとマックスが再会した瞬間のカタルシスだったんですけど、それが舞台だと印象が薄い気がするんだわ…。まず舞台だと最初にヌードルスが「マックスたちはあの晩皆死んだ」とサラッと話すだけなので、初見だと印象に残らない可能性もあるんじゃないかなーと。映画ではもっと現在と過去を行ったり来たりするし、ヌードルスがマックスたちの墓を訪れる場面もあるので「ヌードルスだけが生き残った」という要素が印象付けられるんですよね。
まぁ舞台だと時間軸を行ったり来たりするのが難しいのは分かるんですが(「壬生義士伝」の時も大変そうだったし)、プロローグの壮年期の後は少年期→青年期→壮年期と時間軸通りに進んでいくから、原作映画の少しずつ過去の謎を紐解いていくような面白さも感じなくて。
マックスが生き延びたことも観客にはすぐにバラしちゃうしなー…たしかにヌードルスは知らないわけだけど、観客も知らないままラストシーンを迎えた方がドラマティックだったと思うんだけど。まぁマックスの裏切り自体無かったことにされちゃったから何を言っても詮なきことですがね!

ちなみに原作映画は最初にアメリカで公開された時、監督の意に反して制作会社が「物語を時間軸通りに並べ替えた」編集版が上映され、大不評だったそうです(監督は滅茶苦茶落ち込んだそう)
その後、監督が意図した「現在と過去のエピソードを行き来しながら、少しずつ真相が明かされていく」という編集版(今でいう完全版)が公開されて、こちらは大絶賛されました。
私はヅカ版観劇後、このエピソードを思い出して何とも複雑な気持ちになったのでした。イケコはこの映画を舞台化して、何を一番観客に伝えたかったのかなぁ…。


●デボラの心変わりについて

ヌードルスとマックスのキャラ変同様、デボラも映画とはキャラクターが変わったというかもう別人でしたね!(笑)
ただ、性格が丸くなったことやヌードルスへの好意をはっきり示すようになった点については特に何も思いません。舞台だし、宝塚だし、ヒロインだし、まぁこれくらいの変更はあるわよね~って感じ。

ただ、解せぬ…ってなったのは最後の最後、デボラがマックスを愛するようになっていたこと。
あれマジで分からないんですけど!!何で!?デボラはヌードルス一筋でしょ!!??

ヅカ版デボラはブロードウェイスターからハリウッドに進出し、始めは良かったものの後ろ盾を失って引退状態に。その後はチャリティー活動だけしている、という経歴になってましたが、映画では年をとっても女優を続けています。
そしてその陰にベイリー長官ことマックスがおり、二人は愛人関係で結ばれている。デボラはベイリー財団のチャリティー活動もしているけれども、それと引き換えのように女優としても活躍し続けているという、どこかビジネスライクな愛人関係として描かれていました。ヌードルスと再会した時も、ベイリー長官邸でマックスと再会すればヌードルスがショックを受けるだろうと心配して彼を止めようとしています。色々あった二人だけど、デボラの中にはまだヌードルスへの情が残っているんだろうなと感じた場面です。

それがヅカ版ではいつの間にかデボラがマックスを愛するようになっているという…えっ何でそうなったの???
偶然再会したマックスの話を聞いて、同情しちゃったとかそういうこと?でも連邦準備銀行の強盗計画なんてアホなこと実行して、たまたま生き延びただけの男ですよ??しかも政財界で成功したとはいっても汚職まみれだし、「真面目な人よ」なんてどっから出てくるんだその評価…。
女優業を続けられなくなって、行き場を失ったデボラをマックスが囲っているってんなら分かるんだけど…囲われているだけで愛情がないのであれば、マックスを励ますための誕生日パーティーを企画しようなんてしないよねー…。
デボラ→マックスへの愛はいつどこで何をきっかけに生まれたんだろうか…さっぱりわからん。

マックスの方は少年時代にデボラを密かに思っていたというエピソードがあったけど(これもヅカ版オリジナル設定だけど)、青年期のマックスは何だかんだキャロルを愛していて、デボラに未練なんてなさそうだったのになぁ。なのでヌードルスがマックスに「良かったじゃないか、恋が実って」と皮肉めいたことを言う時も、違和感バリバリで全然響きませんでした。
映画みたいにマックスがヌードルスを裏切ってデボラを奪ったのなら、皮肉りたくなる気持ちも分かるけどさー…マックスは裏切ってないじゃん。これじゃヌードルスがただ羨んでひがんでるだけみたいじゃん。っはー、響かんわー!!

映画でも、マックスが何故デボラを愛人にしたのかはハッキリしないところがあったけど、裏切られた絶望感をヌードルスに味わわせる大きな要素にはなってたんですよね。だからこそマックスの「俺を殺せ」という要求の動機にもなりえたし。
それがヅカ版では愛人関係になった理由がますます分からなくなってたし、その必要性すら感じなくなってたんですけど…せめてデボラは映画と同じように、「誰と一緒にいようと、本当に好きなのはヌードルス一人だけ」という一途さを貫いて欲しかったな。それが細やかな救いでもあったのに。
あの終わり方じゃ、折角再会した親友と初恋の人を再び失ったヌードルスがあまりにも可哀想でさー…夢も希望もありゃしねぇよぉ…。


●アメリカという国の描き方

ヅカ版で凄く違和感があったのは、「マックスがアメリカを憎んでいる」という描写。
これも何でそうなっちゃったんだ?要素でしたねー…だって原作映画は監督のアメリカ愛が溢れてたじゃん。

プログラムのコメント等から察するに、「移民の物語」が大好きなイケコが移民要素を強調したくて付け足しちゃったのかなぁという印象です。
全編を通して「ユダヤ系移民はアメリカでは生きづらい」ということがヅカ版では強調されていたし、ヌードルスも「ダビデの星よ~」とか「神よ~」とかやたら歌っていたけど、映画ではそこまで民族色って強くなかったので観ていて不思議でした。
たしかに1930年代という時代背景的にユダヤ系は特に生きづらかっただろうし、貧しい生活から社会への恨みが募っていったということはあると思うけど…レオーネ監督のアメリカの描き方には憧れと愛を強く感じたんですよねぇ。
残酷な面も汚い面もある、でもエネルギッシュな華やかさにも溢れているのが監督の描くアメリカ。明も闇もどちらも等しく魅力的な国。そしてヌードルスやマックスたちは、その国で激動の時代を必死に生きぬいた。
その姿に「アメリカへの憎しみ」なんて感じなかったんだけどなぁ。

ヅカ版のマックスが連邦準備銀行を襲おうとしたのは、この「アメリカが憎い」という感情も動機の一つになったのかな、とは思いました。
でもこれもイケコのオリジナル設定なんですよね~~~~!!
マックスの父親が精神病患者だったというのは原作通りだけど、「アメリカを呪いながら死んでいった」というのはイケコオリジナルなのでね…やっぱりよく分からないですね…。

これはあくまで私の解釈だけどさ~映画を作ったレオーネ監督はアメリカにめっちゃ憧れてたし大好きだったと思うんだよ~「♪God Bless America~」と思っていたと思うんだよ~~そんなアメリカをさ、何で登場人物たちに「どうしようもなく憎い国」って言わせたんだろう…ちょっと悲しい。
少なくともワンスという作品において、「移民たちの恨みの物語」を描かなくてもよかったんじゃないかなって思いました。だって原作にはないんだもの。ただでさえ尺が足りないんだから、原作にない主義主張は突っ込まずにイケコオリジナル作品でそのテーマを描いてくれないかなーって思っちゃったのでした。
イケコのオリジナルアレンジって好きなものも多いけど、このアレンジは何を狙ってたのかよく分からなかったです。

まぁもしかしたら、映画の原作であるハリー・グレイの本にはそういう描写があるのかもしれませんけどね(ヅカワンスのクレジットも原作はセルジオ・レオーネではなくハリー・グレイとなっているし)


というわけで、雪組のワンス脚本にガッカリしたという話でした。良いと思った所も沢山あるんですけどね~!!
ガッカリ感があまりに大きくて吐き出さないと消化不良でぶっ倒れそうだったもんで、ハハハ(笑)
良かった点はキャスト感想の方で書けたらいいなと思います。萌えポイントについても語りたい~。
こんなグダグダ長文に最後までお付き合いくださった方、どうもありがとうございました!!

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